尼崎城
(尼崎城跡より転送)
中世
戦国時代の1526年(大永6)に細川高国が、西摂支配のため海上交通の要所尼崎の大物に築いた城。細川両家の抗争で、細川澄元が堺を拠点としていたのに対して、高国は尼崎を拠点として勢力を蓄えて対抗した。高国が大物の廣徳寺で自刃した後も、細川晴元と反晴元派の抗争において堺と尼崎の重要性には変化がなかった。その後、当地はしばしば戦場となり、1533年(天文2)から1570年(元亀元)にいたる37年間で、尼崎城そのものでの攻防は明らかではないが、この地が在陣地となること28回、放火7回をかぞえる。そのうちの18回は、1533年大物での一向一揆との争いをはじめ、1558年(永禄元)三好長慶が芥川城から尼崎城へ入城したさいの合戦など、大物と東町、東町と西町との間(近世の尼崎城地)といった戦国時代の町場に集中している。
尼崎城には中世戦国期の古城と近世城郭との両方がある。近世以前の尼崎古城に関しては旧位置が明確でないものの、江戸時代の尼崎城本丸北東方に古城跡と記された絵図があり、そこに存在したと推定される(『尼崎市史』第13巻口絵掲載、大垣市立図書館蔵「寛永12年尼崎城下絵図」参照)。規模・施設のほどは『下間(池田)家系譜』によれば本丸と二之丸があって、天守はなく櫓ばかり堀は五十間四方にすぎなかったと伝えられる。
萩藩閥閲録中の「大内政弘感状写」(『尼崎市史』第4巻)に、1473年(文明5)12月7日に大内政弘方の椙社弘康が尼崎及び大物城を攻め落としたことが記録されており、細川高国の尼崎城築城以前に大物城と呼ばれる城があったことがわかる。この大物城の正確な位置や築城・存続期間は不詳であり、柵を築いた程度のものであったのではないかとも考えられる。1968年(昭和43)刊行の『尼崎市史』第2巻は、この大物城及び、高国築城の戦国期尼崎城は戸田氏鉄による近世尼崎城築城まで存続し、近世尼崎城は戦国期尼崎城の位置に規模を拡大して築かれたとしていた。その後、尼崎在住の城郭画家荻原一青が、大物の西側に「尼崎古城跡」と記す尼崎城郭図をもとに、大物城の位置を近世尼崎城の北東、大物の西側で、近世中期以降の城下絵図類には「御仏殿屋敷」「鉄砲稽古場」などと記されている場所であるとする説を発表した(読売新聞尼崎版1971年(昭和46)9月22日付記事)。この時点では、大物城とは別に細川高国が築城した戦国期尼崎城があったと考えられていたが、その後の小野寺逸也の研究(「江戸時代前期の尼崎城下絵図について(2)」『地域史研究』第11巻第3号、1982年3月)により、荻原が拠った絵図以外の近世城下絵図類においても大物の西側に「古城」あるいは「尼崎古城跡」と記すものがあり、戦国期尼崎城はこの位置にあり大物城とも呼称された、つまり戦国期尼崎城と大物城は同じ城であると考えられるとの説が提示され、現在はこの説が有力である。なお、如来院文書に「永正十六年二月十七日細川高国柵于摂州尼崎築城」(永正16年=1519年)とあり、「続応仁後記」巻一(『改訂史籍集覧』第3冊通記類)は高国が1526年(大永6)に諸将に命じて細川尹賢の居城を築造させ西国の支配にあたらせたとする。高国の築城が永正年間と大永年間の2回にわたって記録されていることについて、永正年間の築城が柵城の急造のような形のものであり、その後大永年間にある程度本格的な築城がなされたのであろうとの解釈が、『尼崎市史』第1巻において示されている。
近世
戸田氏鉄が築いた近世尼崎城(1618年(元和4)築城開始)は数種の古絵図によって具体的な構成が知られる。城郭は大物川と庄下川が大阪湾に注ぐ砂州を利用して築かれ、水堀を二、三重に巡らした、いわゆる平城であった。縄張は方形の尼崎城本丸を中心に西と北に矩折れの二之丸、東に松之丸、南に二之丸のうち南浜、また西に折れて西三之丸が螺旋状に回り、さらに松之丸の東側に東三之丸が設けられた。城内の規模は青山氏在城当時のものとみられる絵図(加藤省吾氏収集文書)に「東ノ方南北百四拾五間西ノ方南北百八拾八間南ノ方東西弐百拾五間北ノ方東西弐百五拾間」と記し、総面積4万534坪4(御城内坪数)あったことが知られる。1635年(寛永12)戸田氏鉄が大垣城へ転じた後は青山氏を経て1711年(宝永8)以降、桜井松平氏が在城した。明治維新までの間、改築や修理が数度行なわれた。寛文年間(1661~1673)築地町の新設と共に南浜と西三之丸の櫓五棟を改めたり、享保年間(1716~1736)堀浚え普請や1777年(安永6)石垣孕〔はら〕みの修築、1813年(文化10)櫓上棟作事、1825年(文政8)天守の修理などが行なわれたが、とくに1846年(弘化3)本丸御殿が焼失し翌年再建されたのが大きい工事であった。1873年(明治6)に廃城となり城郭のすべてが取り壊され、堀も埋没してしまった。別称、琴浦城とも呼ばれた。
現代
2015年(平成27)、株式会社ミドリ電化創業者の安保詮(あぼあきら)氏が、同社創業地である尼崎市に尼崎城を建築して市に寄贈することを申し出たのを受けて、同年11月25日、 尼崎市は安保氏との間に「尼崎城の建築及び寄付に関する協定」を締結した。建築場所と設計を検討した結果、近世尼崎城の天守と付櫓の外観を再現する鉄筋コンクリート構造の施設を、近世尼崎城とは東西の方角を反転させた形で旧城地のうち西三の丸の一画にあたる尼崎城址公園内(北城内)に建設することが決定された。建築工事は2016年12月20日に着工され、約2年の工事を経て竣工した尼崎城が、2018年11月30日に安保氏から尼崎市に寄贈された。施設を受領した尼崎市は、内部に尼崎城や尼崎藩の歴史に関するパネル展示、VRCG(コンピュータグラフィックスを用いて制作するバーチャル・リアリティの動画)シアター、江戸時代の武具や衣装等の体験コーナー、尼崎出身の城郭画家荻原一青が原画を描いた日本百名城手ぬぐいの展示コーナーなどを整備し、合わせて周辺の尼崎城址公園の整備を行ない、2019年3月29日に有料の展示観光施設として一般公開した。
参考文献
- 小野寺逸也「江戸時代前期の尼崎城下絵図について(2)」『地域史研究』第11巻第3号 1982
- 松岡利郎「尼崎城の特徴」『大阪春秋』第64号 1991 大阪春秋社
- 松岡利郎「摂津尼崎城再考」『地域史研究』第22巻第1号 1992