尼崎浦・大坂浦漁民の漁場境界争論
あまがさきうら おおさかうらぎょみんのぎょばきょうかいそうろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
江戸時代のはやくから、尼崎浦の東の境界は尼崎水尾、中島新田(現大阪市西淀川区)の西端南北を結ぶ線ときまっており、東隣の大坂浦の漁業権は西成郡の大野・福・野田・九条・難波の5村がもっていた。この5村は「漁師方5カ村組合」として大阪湾および大坂市中の川々で操業していた。組合5村と尼崎漁民の漁場争論は1752年(宝暦2)の1件のみであるが、九条村蜆〔しじみ〕漁師が尼崎漁民を訴え、尼崎側が敗訴した。大坂浦地区内の佃・大和田両村の漁民は、江戸時代初頭から特権として全国各地へ出漁する自由を幕府から公認されていたので、尼崎浦への出漁をめぐる訴訟では1737年(元文2)、1775年(安永4)、1799年(寛政11)とも、阻止した尼崎側が敗訴した。