尼崎浦・鳴尾浦漁場境界争論
あまがさきうら なるおうらぎょばきょうかいそうろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
鳴尾村による武庫川尻丸島の開発願いをきっかけに、1759年(宝暦9)から1762年まで続いた争論。丸島を立会草場とする鳴尾村が鳴尾浦に隣接する丸島地先のイワシの好漁場を支配しようと企図したもの。1759年8月鳴尾村は、従来から丸島地先でイワシの地曳網漁をおこなってきた中在家町の網親3人を相手として大坂東町奉行所へ訴え出たが、翌月奉行所は双方の領主による内済を命じた。翌年3月、両浦の領主である幕府代官所・尼崎藩・篠山藩の各支配庄屋中から選任された内済取扱人が調停に着手したが紛糾し、1769年になってようやく内済証文と内済絵図(徳田善五郎文書/『尼崎市史』第6巻)が取り交わされた。両浦の境界を武庫川の中央とし、尼崎浦が網を引き揚げてきた鳴尾浦東部の浦請けに対して尼崎浦は10年季で1か年に銀600匁を負担することとなった。尼崎・鳴尾両浦の漁場境界はこの争論をつうじて確立されたといえる。
参考文献
- 福田廣一郎「宝暦年間の尼崎・鳴尾漁場争論」『地域史研究』第9巻第3号 1980