尼崎町(中世)
あまがさきまち(ちゅうせい)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
尼崎は、鎌倉時代以降、瀬戸内海と京都・奈良とを結ぶ要港として発展し、海運業者や商工業者が集住したため町場化がすすみ、戦国時代には「尼崎町」と呼ばれるにいたった。この尼崎町は、魚崎町・市庭町・風呂辻町・辰巳町・別所町などの総称で、現在の大物町・東本町・南北城内の地域に相当する。住人たちは、大覚寺・本興寺などの寺院を中心に結束し、尼崎地下人・尼崎衆として「尼崎惣中」を組織し、町を自治的に運営した。16世紀初期に、細川高国がこの地に尼崎城を築いたため、尼崎町の西半部は、城を中心に侍屋敷が多くなるが、住人による自治的運営は依然として維持された。ところが、1569年(永禄12)、織田信長が矢銭を催促してきたのを、尼崎惣中が拒否したため攻撃をうけ、その後、幕藩体制下の城下町としては発展拡大するが、自治組織の面では弱体化していくこととなった。