尼崎築港
1929年(昭和4)3月、尼崎市および大庄村地先の海面を埋立て、工業用地と港を築造する計画で、浅野財閥の浅野総一郎によって創立された株式会社。浅野はすでにその前年、東京湾埋立会社によって鶴見川崎の京浜臨海工業地の造成を完成していた。その経験から阪神間工業地造成を計画し、1926年兵庫県に出願したが、同じころ山下汽船社長の山下亀三郎も同じような計画をもっていて両社の競願となった。そこで県の意見で両社が合同し、浅野が66.6%、山下が26.3%を出資して資本金1,000万円の同社が創立された。埋立計画地は49万5,865坪、1933年の設計変更で51万7,294坪に拡張され、第1次大戦前の丸島築港計画よりさらに大規模なもので、そのほか隣接地15万坪も買収することとなっていた。浅野財閥の資金力で工事は急速に進捗し、1940年末には44万5,360坪と計画の86%を完成した。工事の進捗とともに1931年から埋立地の譲渡・賃貸を開始し、鉄鋼・石油・電力を主とする大工場地帯が出現、1万トン級船舶が接岸できる一大工業港が形成され、阪神工業地帯の中核となった。埋立地と東海道線とを結ぶ鉄道線の敷設権を尼崎鉄道会社から譲り受けたが、この鉄道線は実現することはできなかった。その代わりとして同社は、1932年6月25日から大庄村道意-大島-武庫川大橋-阪神武庫川駅-又兵衛新田-道意の循環バスの営業を開始し、工場地帯への人員輸送をはかった。
尼崎築港会社が計画していた工業用地の造成は、完成半ばにして敗戦を迎え、当時の情勢と経営状況のもとでは工事の継続が不可能であった。そのため兵庫県と協議し、規模を縮小して工事竣工とする設計変更を行ない、未着手部分は県が施工することなどが1947年(昭和22)に決まった。1948年に公有水面埋立工事の設計変更願および工事竣工認可申請が認められたことにより、工業用地造成事業は完了した。埋立地の地名は会社の希望が容れられ、扇町・末広町・鶴町と命名された。
参考文献
- 『尼崎築港70年史』 1999