尼崎藩札
藩札の歴史の前に私札の歴史がある。1660年代~1670年代(寛文・延宝期)の尼崎銀札が私札か藩札かは史料的に確定できない。藩札と確認できる最初のものは、1684年(貞享元)の西宮銀札で、西宮町人の資力と信用に頼って発行された藩札である。1707年(宝永4)幕府の藩札通用禁止令が出て、藩札は中断されたが、1730年(享保15)禁止令が解かれると、再び西宮銀札(藩札)が発行された。このころには貨幣流通は町場から農村部へと広がり、農民の貨幣欲求は高まっていたので、藩は1743年(寛保3)村や農民個人に銀札を貸し付けることを始めた。所有田畑を質物に取り、月7朱(0.07)の利息で西宮銀札を貸し付けた。これは貨幣窮乏を救う、文字どおりの御救銀札として農民に歓迎された。そして1744~1751年(延享・寛延期)になると、有力農民層を札元とする藩札も本格的に発行されることとなった。
しかしその後藩札制度に転機が訪れる。1769年(明和6)藩領の西宮・兵庫津と灘地方の村々が公収されたため、当面西宮銀札を回収する負担が藩にかかった。そのうえその後の藩札発行の上で、西宮町人の資力に頼れなくなったことは大きな打撃であった。ここに農民に発行を許した御救銀札の通用を停止して回収させ、代わって1777年(安永6)藩の掛屋・泉屋・加島屋名義の藩札(尼の十二札)を発行し、遅れて1818年(文政元)藩の尼崎引替役所銀札(同前)を発行して、これらの藩札のみを通用させることにした。しかしそれはやがて藩札を藩財政の窮乏を糊塗するために利用する結果となる。すなわち藩札を乱発したため、1834年(天保5)に引替え不能におちいった。1842年領民の中から引請人が出て、彼らの上納した冥加銀に見合う額だけ旧銀札に引請人の印を押すことにした。しかしそれは見掛け上、藩札の信用を回復しただけで、正銀への引替えはできないままに終わった。
従来、1707年(宝永4)の札遣い停止令による藩札回収額から、貞享・元禄期(1684~1703)には本格的に尼崎藩札が発行されていたと推定されており、その根拠の一つが本項目でも述べられている最初の尼崎藩札- 1684年(貞享元)発行の西宮銀札(一匁札)-の存在であった。しかし現在では、確認できる最古の藩札は尼崎町七松屋新右衛門を銀主とした1701年(元禄14)発行の一匁札という永井久美男氏の説が有力である。永井説によると貞享元年発行とされてきた西宮銀札の発行年は1744年(延享元)であり、また、西宮銀札が初めて発行されたのは札遣い停止令が解かれた1731年(享保16)末と推定されている。根拠の一つが否定されてはいるものの、従前からの貞享・元禄期頃に本格的な藩札発行が始まったという見方は引き続き有効であろうと考えられる。
参考文献
- 永井久美男「西宮銀札の「甲子」押懸け印-西宮銀札の貞享元年発行説を否定する-」『地域史研究』第31巻第2号 2001