尼崎藩領
あまがさきはんりょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1617年(元和3)、近江国膳所藩主であった戸田氏鉄が尼崎に所替えとなり、川辺・武庫・菟原〔うはら〕・八部〔やたべ〕4郡にわたる5万石を領有した。市域は園田地区をのぞいてほとんどが藩領となり、東は神崎川から西は八部西須磨村までの西摂海岸線一帯が藩領となった。1635年(寛永12)青山幸成は戸田氏の領地をそのまま引き継いだが1643年幸成の遺言による分知にともない4万8,000石に減った。
1711年(宝永8・正徳元)松平氏(信定系)が4万石で入部したとき、青山氏領であった村々のうち市域以外の武庫・菟原・八部3郡のうち26村が公収された。その後松平氏の所領は明治までに2回変更された。1769年(明和6)には、西宮・芦屋・神戸市域の24村1万4,000石余が公収され、播磨国赤穂・宍粟〔しそう〕・多可3郡で71村1万9,000石余の替え地が与えられた。さらに1828年(文政11)宍粟郡の21村5,800石が公収され、替え地が川辺・武庫・有馬3郡で13村5,500石余与えられた。以後、廃藩までは明治初年にわずか変更があったのみである。