尼崎衆
あまがさきしゅう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
戦国時代の尼崎の町衆。本興寺の法華衆徒、大物西教寺に居住していた大物衆(一向宗徒)らを含み、その代表である惣代表・惣中(名主格)・番頭・番所司が町の自治を担っていた。尼崎惣衆は、共有財産の管理運営や町の鎮守尼崎惣社(貴布禰宮)の宮座の行事・儀式などに当たっていたものとおもわれる。1569年(永禄12)2月、尾張衆と呼ばれる織田信長の軍勢が尼崎衆の矢銭を要求してきた。翌月尼崎衆と尾張衆との間に係争が起こり、尾張衆4,5人が討ち死にしたのをきっかけとして尾張衆が町へ討ち入り、尼崎衆の男女30人ばかりを殺害し町中に放火したという。このとき、尼崎の町は長遠寺と如来院を除きことごとく焼き払われたと伝える。