中山製鋼所尼崎工場

なかやませいこうしょあまがさきこうじょう
尼崎製鈑より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中山悦治商店が資本金50万円の株式会社として設立されたのは1923年(大正12)であったが、その4年前の1919年、中山は尼崎市内初島初島ノ内松島)に亜鉛鉄板(トタン)の製造設備を設けて中山亜鉛鍍金工業所をはじめていた。1929年(昭和4)になって、中山商店は大阪市大正区船町に市内最初の薄板の製造工場を開設し、尼崎のトタン設備も移設して操業した。つづいて1933年には平炉を新設して粗鋼生産を開始、1939年には念願の高炉を稼動させ、先発大手に先んじて小規模ながら銑鋼一貫メーカーに転身した。この間尼崎工場でも、1935年ごろから薄板の圧延と、薄板に錫メッキをするブリキの生産を始めたが、その年産高は薄鋼板2.4万トン、ブリキ6,800トンであった(1936年)。

  戦後1949年11月、尼崎工場は企業再建整備による中山製鋼の第2会社、尼崎製鈑(株)として新発足する。戦災被害が軽微だったことも幸いして、このころには従業員793名で、薄板2万8,000トン・亜鉛鉄板1万6,000トンの生産をあげ、市域の鉄鋼25工場中4、5番目の位置を占めた。翌年以降は、折から高度成長の中で生産を拡大してゆき、1960年代後半には熱間薄板(年産9万トン)では富士・川鉄・八幡に次ぐ4位の、亜鉛鉄板(年産5~6万トン)でも5位の生産量をもつ中堅メーカーであった。しかし同時に、この時期に激しく進んだ生産技術の革新は、熱間薄板から広幅帯鋼への代替を促すとともに、工場間での品質と製造コストの格差を広げた。すでに1964年ころ、競合他社では80%の比率でストリップミルが使われ、亜鉛鉄板の製造でも連続めっき装置の採用が半ばを越えていた。こうした企業間競争のなかで、この事業所でも1975年以後は、連続めっき設備を導入して亜鉛鉄板へ生産の比重を移すとともに、鉄鋼加工品・鋼製家具の製造、さらに住宅・外食産業などへの多角化も試みられるが、1978年希望退職募集、翌1979年2月同社は解散した。

執筆者: 名和靖恭

  初島初島ノ内松島、現西松島町)に中山悦治個人経営の亜鉛鉄板製造工場が新設されたのは1919年(大正8)9月、1千坪の敷地に従業員10人、鍍金釜1基の施設であった((株)中山製鋼所公式Webサイト上の沿革による。『昭和二年十二月末日現在兵庫県管内工場一覧』(兵庫県発行)が記す1919年4月など、異なる設立年月を記す史料もある)。中山亜鉛鍍金尼崎工業所という名称が当初から使用されていたのかどうかは不明であるが、1922年9月発行の『尼崎市勢』第5回のうえですでにこの名称が確認できる。1923年12月22日に資本金50万円、大阪市西区に本社を置く(株)中山悦治商店が設立され、尼崎工業所もこの経営下に入った。なお、尼崎工業所とは別に中山製釘工場が大正期から同じ初島(現西松島町)に立地しており、前記『兵庫県管内工場一覧』などには1923年12月設立と記されている(工場の当初設置年月にあたるのか、あるいは中山悦治商店の株式会社化の年月を意味するのか不明)。1929年(昭和4)1月、同社は大阪市大正区船町に薄板工場を新設し、2月に中山亜鉛鍍金尼崎工業所の設備を移設して操業を開始した。尼崎工業所はこの時点で廃止されたものと考えられる(ただし『尼崎市勢要覧』第15回には、1932年に尼崎工業所が記されている)。1934年6月、(株)中山悦治商店は(株)中山製鋼所と商号を改称した。中山製釘工場は1937年以降、(株)中山製鋼所尼崎工場あるいは同社尼崎製釘工場と記録されている。

  初島の工場とは別に、大庄村中浜新田地先の埋立地(現鶴町)に、1935年8月設立の中山鋼業所(1938年6月大阪中山鋼業(株)となり、1940年中山重工業となる)が立地し、亜鉛鍍鈑を製造していた。1941年9月、中山製鋼所が中山重工業を合併し、旧中山重工業は中山製鋼所尼崎工場となり、1949年11月に尼崎製鈑(株)として分離された。1979年2月に尼崎製鈑が休止したのちはふたたび中山製鋼所尼崎工場となり、1985年10月に廃止・売却された。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 名和靖恭「尼崎市域鉄鋼業の構造変化」『市研尼崎』第22号 1979 尼崎市政調査会
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