尼崎製鋼所/尼崎製鉄
満州事変勃発から半年が過ぎた1932年(昭和7)3月28日、井上長太夫・千葉金三郎など大阪の中小規模の金属問屋の幾人かが千葉邸に集まり、資本金20万円の(株)尼崎製鋼所の創立総会を開いた。電力が余剰気味でもあり、建設費の安い電気炉での特殊鋼生産なら平炉鋼と競争できるだろうという目論見であった。折りよく前年に完成した大庄村の臨海部工業用地に1万3,000m2を賃借して工場を建設、11月には製鉄業奨励法の適用認可も得て、同年末には当時日本で最大容量をもつ電気炉が、翌1933年初めには小型圧延工場が稼動した。しかし、郷里から集めた素人工員ばかりの操業で品質が安定せず、生産を普通鋼に切り替え、1934年には150万円に増資、敷地規模を広げて中浜新田の4万8,000m2を買収、同年夏には2基の平炉が、つづいて中・大型形鋼工場の操業がはじまった。その後も折からの軍需中心の需要拡大・輸出増加・政府の政策転換などの追い風を受けて、尼崎製鋼では設備投資と増資が繰り返され、1939年には隣接する大阪製鈑(株)を合併して生産品目に薄板・厚板を加えた。この結果、粗鋼生産は1939年には19万8,000トンと1933年の12倍に、鋼材生産は17万4,000トンと約8倍に拡大し、資本金も60倍の1,200万円へと急増した。この間、すさまじく高騰した価格にも助けられて収益も高水準で推移し、1937年下期には特配を含む5割配当を実施するほどであった。また1937年、久保田鉄工所との折半出資によって銑鉄自給のための製銑会社、尼崎製鉄(株)を資本金500万円で創設、大庄村又兵衛新田の12万m2に新設された工場では、1941年から高炉が出銑を開始した。1944年両社は合併して新たに尼崎製鉄(株)として発足、小規模ながら、先発大手平炉メーカーに先駆けて市域に銑鋼一貫メーカーが誕生したのだった。
終戦の翌1946年5月、第2会社として尼崎製鉄から分離設立された尼崎製鋼所は、1950年までに全工場を再開し、従業員も1,800人に達していた。2号高炉の新設を含む銑鉄一貫化操業も構想されたが、デフレ不況のもと1953年ころには先発大企業とのコスト競争で苦境に陥り、尼崎製鉄(井上長太夫社長)を介して三和・神戸両銀行の支援を受けていた。翌1954年春、会社の再建案をめぐって労働組合との紛争が起こったが、その尼崎製鋼所争議が深刻化した6月1日、5,000万円の手形が決済不能となり倒産、30日全従業員を解雇した。この事態に際して尼崎製鉄は、かねてから銑鉄の安定調達を望んでいた神戸製鋼所に経営権を譲渡、翌1955年4月の尼崎製鋼所の再発足は神戸製鋼の傘下で行なわれ、1958年には製鉄と製鋼の合併により新たに尼崎製鉄(株)が発足した。折しも1956年から「鉄鋼合理化第2次計画」が始動、同年末発表された神鋼長期計画に沿って、尼崎製鉄でも1957年の第2号高炉、1960年の30トン転炉2基をはじめとする設備の増強がすすめられた。この結果、1961年の生産高は銑鉄が68万トンで1956年の4倍弱に、粗鋼は59万トンで3倍半に、鋼材もまた3倍半の46万トンへと急激に増加し、これ以降、長期にわたって市域鉄鋼生産の半ばは尼崎製鉄によって占められることになった。
当時、神戸製鋼は神戸市内灘浜に一貫製鉄所を建設して生産を拡大していたが、特殊鋼と線材に重点があったため銑鉄はもとより普通鋼とフラットロール材でも尼崎製鉄の補完が不可欠であった。1960年代、鋼板類の製造工程に熱間・冷間ストリップミルが普及し、品質とコストの両面から広幅帯鋼への代替がすすんだ。これに対して尼崎製鉄は1963年「社運をかけて」冷間圧延事業へ進出、堺工場を新設した。当時、神鋼グループ内ではホットコイルの供給は期待できなかったから、工程上の連係を欠く川下への進出であったが、1966年には従業員ともども日新製鋼に譲渡された。前年の1965年尼崎製鉄は公式に(株)神戸製鋼所尼崎製鉄所と改称された。
1960年代の後半から神戸製鋼所では加古川製鉄所の建設が開始され、それにつれて新旧工場間での生産性の格差が拡大した。尼崎工場ではすでに1968年厚・中板生産、1970年平炉操業を中止し、生産の比重は新工場に移行しつつあったが、1978年の不況時、加古川製鉄所への生産集約が実施された際に、2号高炉、製鋼工場が全面休止され、工場縮小が確定的となった。そして1987年9月28日、最後まで鋳物用銑を生産していた1号高炉が休止、「鉄の街」を代表した工場は、歴史にのみ名を止めることになった。
〔尼崎製鉄の事業所立地及び操業状況について〕
尼崎製鉄は、尼崎の事業所(尼崎製鉄所)に加えて、戦後初期から高度経済成長期にかけては呉製鋼所を有しており、さらに堺製作所も開設している。
同社の「昭和31年新株式発行目論見書」に記載された「沿革」によれば、同社尼崎製鉄所及び呉製鋼所の操業状況は次のとおりである。
1944年(昭和19)8月、戦時体制の影響により尼崎製鉄所は操業を休止した。敗戦後の1946年4月、尼崎製鉄は旧呉海軍工廠跡に尼崎製鉄呉作業所を開設し、鉄塊・鋳鉄・鋳銅の製造を開始、1952年4月には呉作業所を呉製鋼所と改称した。翌1953年には、尼崎製鉄所も操業を再開した。
こののちも呉製鋼所は尼崎製鉄の主力工場のひとつとして稼働しており、1954年発行と推定される同社事業案内においては、尼崎製鉄の事業所は尼崎製鉄所・呉製鋼所・東京事務所の3か所となっている。さらに1958年の尼崎製鋼所との合併ののち、1962年には尼崎製鉄堺製作所(薄板工場)が開設された。1965年4月に尼崎製鉄が神戸製鋼に吸収合併されたのちは、3工場とも神戸製鋼の工場となり、尼崎工場(尼崎製鉄所)と堺工場は第2鉄鋼事業部に、呉工場は機械事業部に属した。
参考文献
- 『尼鋼十年史』 1942
- 名和靖恭「尼崎市域鉄鋼業の構造変化」『市研尼崎』第22号 1979 尼崎市政調査会
- 南昭二「尼崎工業の分析-鉄鋼業の衰退を中心として-」『阪神間産業構造の研究』 1987 法律文化社