尼崎製鋼所争議
あまがさきせいこうしょそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
朝鮮戦争(1950~1953年)後の不況の中で経営基盤の浅い中小鉄鋼業は深刻な経営不振に陥った。業界第7位、資本金9億6,000万円、従業員1,800名の尼崎製鋼所も例外ではなく、三和銀行から常務で尼鋼創立者の井上長太夫を迎えて危機の乗切りを図った。1954年(昭和29)3月労働協約締結の際「首切り、賃下げを前提としたものではない」との言明にも拘らず、同月末会社は15%の賃下げを含む合理化案を提示した。組合員の対会社不信は一気に爆発し交渉は決裂。5月に会社は無期限工場閉鎖と381人の解雇を通告した。不況下労働運動の典型として総評、鉄鋼労連の全面的支援の下、地域・家庭を含めた大闘争となり大きな社会問題となった。6月1日会社は不渡りを出したため、組合は77日間の長期ストを中止し「指名解雇の承認」と引替えに工場再開を求めた。会社は「既に主導権は銀行・債権者会議にあるため工場再開は不可能」とし全員解雇を宣言した。7月7日組合はこれを受諾し組合を解散した。会社は兄弟会社である尼崎製鉄と共に神戸製鋼の系列に入り、後に吸収合併された。これを契機に今日の大手5社による系列化が一挙に推進された。「尼鋼の悲劇」と呼ばれ企業内労働組合の限界を示すものとして、労務対策のテキストにしばしば引用された。
参考文献
- 『勝利なき闘争 尼鋼争議の悲劇的結末』 1954 阪神日日新聞社
- 鈴木栄一『尼鋼の職場闘争』 1986 本音を語る会
- 山本正之『尼鋼争議-闘いの記録と争議に見る人間像-』 1993