正業館

せいぎょうかん
岸本一郎より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  尼崎藩1819年(文政2)鉄砲洲の江戸屋敷に邸内学校として止善舎を設け、服部小山らが江戸詰藩士の教育にあたった。国元尼崎における藩校正業館の設立はそれから50年後である。1868年(明治元)10月明治政府が「藩治職制」を公布したのをうけて、尼崎藩でも藩の職制を整えるとともに、「大イニ学校ヲ御取立、兵学・洋学ヲモ一所ニ御世話コレ有リ、人材御成育第一ノ事」(藩治職制愚見)という藩内の意見もあり、1870年1月16日、藩校正業館(文明館とも称した)を開校した。中谷雲漢を督学に迎え、文武場を中心とする伝統的な教学体制の整備をはかった。尼崎には緒方洪庵らが設けた大坂種痘館の分苗所として大覚寺(現東本町4)に除痘館1849年(嘉永2)11月設けられ、種痘法が普及した。藩ではその成果に注目し、1867年(慶応3)5月大物町に藩取立ての除痘館(田中周裕が主宰)を設けた。正業館設立当初わずか20歳の岸本一郎が洋学指南役として尼崎藩に登用されたのは、このような動きと無関係ではなかろう。岸本は大坂に蘭学塾敵塾を設立した緒方洪庵の甥であり、1866年10月幕府派遣の最初の海外留学生の1人としてロンドンで主に化学を学び、幕府崩壊にともない1868年帰国して尼崎藩に出仕、2年後(明治3)には大阪舎密局に転じた。岸本とともに洪庵の三男四郎(惟孝)も尼崎藩洋学師として招かれたという。四郎は兄平三(惟準)と越前大野洋学館で蘭学を学び、その後長崎医学伝習所でポンペについて学んだ。短期間であり、彼らの尼崎藩における事蹟は明らかでないが、1857年(安政4)大鳥圭介の登用とともに、洋学の最新の知識をもつ人材が藩に任用されたことは注目される。

  正業館の校舎は後の開明小学校2004年学校統合により廃校)の敷地(現尼崎市役所開明庁舎及び開明中公園)にあった。本館に東寮・西寮が付設され、本館は藩士の子弟、東西二寮は庶民教育の場とされた。18711872年(明治4・5)ころには教師36人、生徒620人を擁していた。1870年10月~1871年9月の1年間の学校費として2,410両支出されていた。1872年2月尼崎県の廃止にともない正業館は廃校となった。しかし、学制発布以後は士族の子弟教育のための正業小学として、元尼崎藩大属粟津昌国を校長に迎え再興された。なお、東西二寮の庶民教育は豊島成温内田頼重の漢学塾にそれぞれ引き継がれた。

執筆者: 竹下喜久男

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