条里制
じょうりせい
(川辺南条より転送)
(川辺南条より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
大化改新以後にできた律令体制の一つに班田制〔はんでんせい〕があり、公地公民の原則に基づく班田収授の実施には、その土地の位置の明示と、公平な一定単位面積の区画が必要であった。こうした要請により設けられた制度が条里制である。地割をともなって、一定単位面積ずつに土地を区画する方法の祖型は、すでに紀元以前の中国にあり、井田〔せいでん〕とか阡陌〔せんはく〕と呼ばれていた。この方法が朝鮮を経て古墳時代にはすでにわが国に伝えられていたようである。それが班田制に実施に当たり、再整備され区画も統一されて条里制が成立したといえる。条里制に基づく条里区画は、郡単位に整備されたが、さらにいくつかに分割された場合もあった。尼崎市域の条里は、川辺南条が主体で、東西に7条、南北には7里に渡るが、河川の氾濫原に在るため、遺構が欠けていたり不明瞭な地域もある。市域東部では猪名川・藻川を挟んで豊島〔てしま〕郡条里に連結しているが、経緯線の方向は川辺郡と同じである。市域西部では経緯線の方向を幾分異にする武庫郡条里が、武庫川を越えて市域に広く分布している。律令制度が崩壊し、班田収授も行なわれなくなると、条里制の意味も忘れられてしまったが、土地に刻まれた地割や区画は長く維持されていて現在に及ぶものも多い。また条里呼称の中でも、条と坪をともなった数詞地名が近年まで残っていて条里遺構復元の重要な手掛かりとなる。
参考文献
- 落合重信『条里制』 1967 吉川弘文館
- 八木哲浩「近世村絵図からみた摂津川辺郡条里」『市史研究紀要たからづか』第1号 1984