川辺郡の大阪府管轄替え問題
かわべぐんのおおさかふかんかつがえもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1896年(明治29)の郡制・府県制の施行を前にして、尼崎町を中心とする川辺郡諸町村では川辺郡の兵庫県から大阪府への管轄替えを要望する運動が起こった。その直接の契機となったのは、1895年12月大阪府会が川辺郡神津村と東谷村の一部を大阪府へ編入する建議を内務省に提出したことであった。要望の理由は(1)川辺郡の納付する県税にたいして県の郡への支出額が約4分の1である、(2)郡は人情・風俗・習慣において大阪府にひとしく交通も発達して関係が深い、(3)府県税は大阪府のほうが低率である、(4)堤防・橋梁・道路など府県費要支弁事業は大阪府のほうが良好である、というものであった。1896年1月尼崎町会では管轄替え希望意見書が可決され、全郡あげて運動がすすめられたが、同年7月郡制が、つづいて10月府県制が実施され管轄替えは実現しなかった。しかしその後もなお1898年12月の尼崎町会では帝国議会に請願することを議決し、翌年2月にはそのための臨時委員会を選出し、郡内各町村長と協力して運動を続行したが、府県の境界の変更を認めないという政府の強い方針の前についに実現することなく現在に至っている。