工場委員会
こうじょういいんかい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
第1次世界大戦後、1919年(大正8)秋から翌年にかけて労資の意志疎通機関として陸軍工廠にまず設置された。1921年5~6月に住友伸銅所尼崎工場の怠業を端緒として住友電線製造所、住友製鋼所で団交権などの要求を掲げて争議が発生、住友伸銅所もスト突入の気配に、6月28日の住友合資会社首脳の回答で工場協議会が設置された。8月25日の委員選挙は、住友伸銅所尼崎工場では、従業員の3分の1を擁する大阪伸銅工組合支部が定数11人のうち9人を掌握した。しかし、1922年1月に組合派の委員は工場協議会の運営を不満として辞職、2月7日の委員改選も、住友伸銅所尼崎工場では従業員の半数がボイコットしながら、6月の住友伸銅所争議で組合は壊滅した。住友工場協議会も、住友製鋼所や住友電線製造所では1924年以降、総同盟傘下の組合が積極的参加に転じた。このほか久保田鉄工所、日本リーバ・ブラザーズ、大日本木管でも1921年に住友伸銅所尼崎工場に相前後して工場委員会が設立され、総同盟各支部もこれを補完する立場をとって、1925年9月確立の総同盟尼崎連合会の主力になった。住友工場協議会は1939年(昭和14)6月には産業報国会の下部組織となり、1941年10月に解散した。
参考文献
- 福本茂雄「総同盟大阪連合会と労働委員会(1・2)」『大阪百年史紀要』 2・3 1966 大阪府史編集資料室