干鰯

ほしか
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  鰯〔いわし〕から油をしぼりとったものを乾燥させた魚肥。近世初期摂津・和泉・紀伊など関西の漁民は各地で大網漁法により鰯を漁獲し、干鰯が畿内農村に肥料として供給された。肥効が大きい反面高価でもあったので、当初は収益の大きい綿作などに施用されたが、房総などの関東漁場・伊予・豊後・肥前などの西南漁場への関西漁民の進出によってその供給は飛躍的に増大し、17世紀後半以降稲作はじめ麦・菜種・藍作などにも施用されるようになり、畿内の農業にとって油粕などとともに不可欠の肥料となり、農業生産力を高めることになった。関西漁民の中心の一つは尼崎漁民で、近世初期から房総・瀬戸内に進出した。また尼崎にははやくから干鰯問屋が存在し、1624年(寛永元)大阪に干鰯商人が発生する以前には尼崎が干鰯取引の中心であったといわれる。18世紀に入ると尼崎地方の農民は干鰯のほか、鰺〔あじ〕・鰹〔かつお〕・鯖〔さば〕・鮪〔まぐろ〕などの魚肥を多用したが、後半期には鰯の不漁と畿内以外の各地での干鰯の施用の普及のため干鰯が高値となり、干鰯などをめぐる国訴の一因ともなった。そのころから明治期にかけて干鰯に代わって北海道の鰊粕〔にしんかす〕など鰊肥が大量に施用されるようになった。

執筆者: 山崎隆三

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