12世紀

康治3年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 11世紀 - 12世紀 - 13世紀


  1101年から1200年までの100年間を指す。

12世紀の年表

  • 1106年(嘉承元)
    • 5月29日 - 左弁官は東大寺長洲御厨返還の訴えに対して、長洲地先の土地は東大寺領、在家は鴨御祖社領と裁決した。
    • 8月5日 - 左弁官は東大寺別当永観が猪名荘田地の国司免判を勅施入当時の広さについて求めたのに対し、半分の45町だけを認めた。
  • 1118年(元永元)
    • この年 - 鴨社長洲御厨では鮮魚を貢進すべき者として、神人300人・間人200人の結番を定めた。
  • 1119年(元永2)
    • 9月3日 - 源師時らは広田社参詣の途中、神崎の遊女白古の宅で明け方まで唱歌して過ごした。
  • 1127年(大治2)
    • 11月20日 - 東大寺公文所は、長洲浜の住人が鴨社供祭人となっても数百家の在家と田地は同寺領なので、在家に寺役を負担させるべきであると主張した。
  • 1128年(大治3)
    • 7月 - このころ、猪名荘の田地45町と長洲浜の在家は東大寺が領していた。
  • 1131年(天承元)
    • 12月 - 摂津国司が長洲浜・大物浜・杭瀬浜の荒浜・江・在家を検注し所当雑役を免除した。
  • 1147年(久安3)
    • 11月8日 - 左弁官は、東大寺が長洲浜の数千家の住人を鴨社神人と同寺寺人にわけて寺人に修造夫役を課したいと訴えたのに対し、夫役賊課は認めず鴨社に毎年の地子未進分を補うことだけ命じた。
  • 1148年(久安4)
    • 8月28日 - 摂関家政所は、朝廷の命令どおりに東大寺領猪名荘内田地の作人らに同寺へ所当・地子を弁済させ、また臨時雑役を免除して政所役を勤めさせるようにと、摂津国大番舎人と主殿所散所雑色らに命じた。
  • 1145年~1151年(久安年間)
    • この頃、大物の南に川を隔てた新出の地として尼崎が形成されたことが、鎌倉時代初期の「大物浜長洲浜請文」(真福寺文書)に記されている。
    • この頃、源為義が長洲御厨内の大物押領を企てたが官旨により追い払われたと、鎌倉時代初期の「大物浜長洲浜請文」(真福寺文書)に記されている。
  • 1151年(仁平元)
    • 7月16日 - 左大臣藤原頼長は前の非蔵人源頼憲を遣わして源為義の摂津旅亭を焼かせた。
  • 1156年(保元元・久寿3)
    • 1月17日 - 杭瀬荘ほかの藤原経定領が子息頼定に譲られた。
    • 1月25日 - 鴨社政所は宣旨・院宣をうけて、同社領長洲御厨の寄人が作人として東大寺領猪名荘田畠の耕作を妨げたり所当を未進することがないよう御厨司に命じた。
    • 2月11日 - 高陽院泰子領橘御園の領所は、寄人らに五節供を高陽院へ納めるよう命じた。また猪名荘椋橋荘民・長洲御厨供祭人らも請作しているところなので、橘御園の寄人らも東大寺地子を納めるようにと命じた。
    • 7月11日 - 保元の乱が起こった。
  • 1157年(保元2)
  • 1161年(応保元)
    • 9月19日 - 東大寺は、鴨社長洲御厨供祭人を本来の38人に限定し、残る在家と大物浜在家を東大寺の支配とするよう官に訴えた。
  • 1162年(応保2)
    • 4月 - 摂津国司は、宣旨・院宣・代々国司免判によって東大寺領猪名荘の所当官物・臨時雑役を免除するよう留守所に命じた。
    • 5月1日 - 左弁官は東大寺の奏請により同寺領猪名荘の四至立券に官使を派遣することにした。同年8月摂津国司は猪名荘の検注を官使とともに行なうよう留守所に命令した。
    • 11月18日 - 椋橋西荘の荘司らは、東大寺領猪名荘下司が官使・国司と行なった検注によって、猪名荘田地と入り交じっている橘御園・椋橋西荘の田地まで取り込み一円として四至を限っていると非難した。
  • 1168年(仁安3)
    • 11月29日 - 伊予内侍領野間荘は、沙弥盛信の私領と交換された。
  • 1169年(嘉応元)
    • 8月23日 - 猪名荘など東大寺の6か寺領荘園は、伊勢神宮造営の役夫工を免除された。
  • 1174年(承安4)
  • 1175年(承安5)
  • 1176年(安元2)
    • 2月 - このころ、富島柳津川尻は八条院領であった。
  • 1179年(治承3)
    • 4月1日 - 皇嘉門院が天王寺参詣の途中、藤原邦綱の別荘寺江山荘に宿泊した。
  • 1180年(治承4)
    • 3月19日 - 高倉院が安芸の厳島参詣に出発し、この夜寺江山荘に宿泊した。
    • 6月2日 - 平清盛は法皇・上皇を奉じて福原に移る途中、寺江頓宮に一泊した。
    • 6月14日 - 前日鳥羽で乗船した九条兼実は、寺江山荘で休息したのち船で大物に行き、そこから輿で陸路福原に着いた。
    • 8月10日 - 中山忠親は河尻で船を降り輿で守部荘まで行って宿泊し、翌11日西宮を経て福原に到着した。
    • 8月22日 - 中山忠親は大物で船から輿に乗りかえ、武庫川を渡船で渡って西宮に宿泊した。
    • 10月15日 - 船で神崎渡に着いた中山忠親はそこで宿泊し、翌16日大物で船から輿に乗りかえて福原に到着した。
    • 11月24日 - 京都へ還幸する天皇らが寺江山荘に宿泊した。
  • 1183年(寿永2)
    • 7月22日 - 多田行綱が平家に対して謀反を起こし、摂津・河内を横行して河尻の船を次々に奪いとるなどした。
    • 7月24日 - 太田頼助は河尻において鎮西からの平家の粮米を押し取り、河尻の人家を焼払うなどした。
  • 1184年(元暦元)
    • 5月18日 - 源頼朝は、源光清を武庫荘小松の下司および公文職に任命した。
  • 1185年(文治元)
    • 11月3日 - 京都から西国へ向かった源義経らは、河尻辺で多田源氏の太田と合戦し打ち破って通った。
    • 11月5日 - 源義経らは大物辺に宿し、追ってきた豊島冠者〔てしまかじゃ〕らの武士は近在の在家に宿した。
    • 11月6日 - 西国をめざした源義経勢の船は大物浜で大風のためほとんど沈み義経ら少数の者が小船で和泉浦へ逃げた。
  • 1185~99年(文治・建久年間)
    • このころ - 後白河法皇は「梁塵秘抄口伝集」に神崎遊女が今様などの雑芸に長じていたことを記した。
  • 1191年(建久2)
    • 4月18日 - 久々智村の雀部国承らが大般若経を書写した。
    • 10月18日 - 東大寺領猪名荘に国役の八十島役雑事が課せられた。
    • このころ - 京都長講堂領の新立荘園生島荘には課役が課せられていなかった。
  • 1193年(建久3)
    • 11月28日 - 一条能保が亡くなった妻の遺領武庫御厨など20か所を子供たちに譲った。
  • 1194年(建久5)
    • 3月6日 - 造住吉社役料賦課に抗議して都へ向かう広田社の神輿が神崎に留まり、同月11日官使の説得により帰社した。
  • 1196年(建久7)
    • 6月3日 - 太政官は東大寺重源の奏請により、河尻一洲などの修築および河尻辺の在家を人夫として雇うことを許した。
  • 1198年(建久9)
  • 1200年(正治2)
    • 5月26日 - 守部広田社神郷田の作人が封戸の負担を拒否するとの広田社の訴えに対し、国司の入勘および国役賦課を停止した国司庁宣によってその封戸を支配するようとの宣旨が同社に下された。

10年紀と各年

1100年代1100110111021103110411051106110711081109
1110年代1110111111121113111411151116111711181119
1120年代1120112111221123112411251126112711281129
1130年代1130113111321133113411351136113711381139
1140年代1140114111421143114411451146114711481149
1150年代1150115111521153115411551156115711581159
1160年代1160116111621163116411651166116711681169
1170年代1170117111721173117411751176117711781179
1180年代1180118111821183118411851186118711881189
1190年代1190119111921193119411951196119711981199
1200年代1200120112021203120412051206120712081209

  事項が少ないため、各年、10年紀はこのページへのリダイレクトです。

案内
広告
検索

  
ヘルプ
ツール
索引