13世紀

延応元年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 12世紀 - 13世紀 - 14世紀


  1201年から1300年までの100年間を指す。

13世紀の年表

  • 1207年(建永2)
    • 7月8日 - このころ、大島郷・雀部郷・浜田郷は河内国通法寺領であった。
  • 1208年(承元2)
    • 3月6日 - 近衛家実が方違のため橘御園に立ち寄った。
  • 1210年(承元4)
    • このころ - 河尻小浜宿の長吏若狭法師らは、先に京都の清水坂を追われた長吏に味方して京都へ攻め上る途中、淀津で山崎の長吏らに敗れた(奈良坂・清水坂両宿非人争論)。
  • 1212年(建暦2)
    • 1月29日 - 藤原定家は有馬から京都への帰途、小林荘から武庫川が二分して浅くなったところを渡って小屋野に出、昆陽池を通らずに神崎で船に乗った。
  • 1213年(建暦3)
  • 1214年(建保2)
    • 5月 - このころ、東大寺猪名荘の庄田は45町余、同寺領長洲などの浜には在家687家があった。
  • 1218年(建保6)
    • 5月1日 - 長洲御厨内の開発田をめぐる東大寺鴨社の争論について、開発人を地主とし地子は東大寺に雑事は鴨社に納めるよう官符が下された。
  • 1219年(承久元・建保7)
    • 3月9日 - 後鳥羽上皇の使者が、倉橋荘・長江荘の地頭解任の要求を幕府に伝えた。
    • 4月 - 後鳥羽院庁が、長洲荘内開発田の支配を東大寺東南院に命じた。
  • 1223年(貞応2)
    • この年 - 京都千本釈迦堂の建立にあたって尼崎の富裕な材木商人が材木を寄進したと伝えられる。
  • 1227年(嘉禄3)
  • 1231年(寛喜3)
    • 8月28日 - 醍醐寺報恩院領の野間田3町など堂舎田園が同院の成賢から憲深に譲られた。
  • 1235年(文暦2)
    • 3月20日 - 東大寺僧禅幸の開発した長洲荘開発田および野地村が、同寺法華堂に寄進された。
  • 1236年(嘉禎2)
    • 3月 - 鴨社社司らは、同社領長洲御厨東大寺衆徒数百人が乱入し、住人に乱暴して鎮守や荘官宅を破壊したうえ開発田の作人を脅迫して所当雑事を東大寺に納める旨の請文を出させたと、朝廷に訴えた。
  • 1241年(仁治2)
    • 2月17日 - 東大寺法華堂は、長洲開発田と野地村の雑掌職を築堤の功をもって同寺僧禅幸に与えた。
  • 1243年(寛元元・仁治4)
    • 2月1日 - 僧道範らは京都から船で讃岐に流される途中、神崎橋下に宿泊した。
    • 3月4日 - 椋橋東荘が近衛家実からその子兼経に譲られた。
  • 1246年(寛元4)
    • 5月 - このころ、橘御園は5月5日の節句のために菖蒲30駄の上納を課せられていた。
  • 1248年(宝治2)
    • 3月23日 - 勝尾寺の般若会で河尻の幸寿らの若者たちが舞をまった。
    • 12月21日 - 山内首藤宗俊が富島本荘の新補地頭職を藤原時俊に譲渡した。
  • 1250年(建長2)
  • 1262年(弘長2)
  • 1265年(文永2)
    • 8月9日 - 奈良から派遣された春日社神人らが、近衛家領六車郷下司を村から追放し、近衛家に前下司を再任させた。
  • 1266年(文永3)
    • 11月 - 東大寺衆徒は、開発地主猪名為末から同寺に寄進された大物尼崎の所領の地主職が、鴨社社司に押領されるのを停止してほしいと訴えた。
  • 1267年(文永4)
    • 2月8日 - 生島荘富松郷内の公田7町111歩が、京都の善峰観念三昧寺に寄進された。
  • 1275年(建治元)
    • 8月5日 - 叡尊が僧衆約120人と河尻燈炉堂近くに一宿し、翌8月6日に、36人に菩薩戒を授戒した。
  • 1277年(建治3)
    • 6月 - このころ、野間村友行名は醍醐寺報恩院領であった。
  • 1279年(弘安2)
  • 1280年(弘安3)
    • 5月 - 浜崎荘春日社供菜神人らは、散在神人職として行なってきた生魚売買業が諸権力の威を言いたてる同業の輩に妨げられることのないよう長者宣を下してほしいと同社に願った。
    • 7月23日 - 興福寺公文所は、浜崎荘住人である春日社神人の生魚売買を従来どおり認め、他の妨げを禁じるとの下文を同荘荘官と百姓らに下した。
  • 1281年(弘安4)
    • 7月21日 - 河尻寺の住人で京都法勝寺に参勤する猿楽の春若丸が、仲間数十人とともに法成寺参勤猿楽の石王丸を京都で殺害した。
  • 1282年(弘安5)
    • 9月10日 - 太政官は、異国降伏祈祷のための東寺諸堂造営料として棟別銭の勧進許可を五畿内国司に命令した。
  • 1283年(弘安6)
    • 9月8日 - 浜崎神人から春日若宮への魚貝の進納がなく、浜崎庄定使春員が責任をとって奈良の市で830文で買って納めた。
    • 12月9日 - 浜崎神人宗安は春日若宮政所へ酒肴を持参して、今後怠ることなく恒例の魚等を進納すると嘆願し、先に進納を怠ったことを許された。
  • 1284年(弘安7)
  • 1285年(弘安8)
  • 1287年(弘安10)
    • 1月 - 一遍上人が尼崎で勧進を行ない、翌日西宮大明神に参詣した。
  • 1289年(正応2)
    • 8月23日 - 一遍上人兵庫観音堂で没した。
    • 9月29日 - 東大寺僧沙門性海は、魚住泊の修築費用を室泊・尼崎渡辺のうちの1か所で、10年を限って徴収することを認められた。
  • 1291年(正応4)
    • 7月 - 生島荘開発領主源実国の子孫覚昭は、徳政にさいして生島庄の預所職返賜の院宣をえたが、本所九条家が認めないので訴えた。
  • 1296年(永仁4)
    • 6月8日 - 六波羅探題は、泉涌寺領潮江新免内の田地をめぐる新免雑掌と瓦林観法・主殿所番頭・本庄下司らの争論に対する施行状を下した。
  • 1298年(永仁6)

10年紀と各年

1200年代1200120112021203120412051206120712081209
1210年代1210121112121213121412151216121712181219
1220年代1220122112221223122412251226122712281229
1230年代1230123112321233123412351236123712381239
1240年代1240124112421243124412451246124712481249
1250年代1250125112521253125412551256125712581259
1260年代1260126112621263126412651266126712681269
1270年代1270127112721273127412751276127712781279
1280年代1280128112821283128412851286128712881289
1290年代1290129112921293129412951296129712981299
1300年代1300130113021303130413051306130713081309

  事項が少ないため、各年、10年紀はこのページへのリダイレクトです。

案内
広告
検索

  
ヘルプ
ツール
索引