1534年(天文3) - 1607年(慶長12)9月20日
近江国神崎郡建部(現滋賀県八日市市)の出。織田信長に仕え、近江国守山において知行500石をうけた。信長横死後、羽柴秀吉に属し若狭一国の郡代として小浜〔おばま〕に住んだが、1584年(天正12)ころ尼崎郡代に転じ、尼崎とその近辺の秀吉直領3万石余を管掌し、尼崎城(旧)に在勤した。江戸時代に入っても秀吉遺領は秀頼に受け継がれたので、高光はそのまま本領(守山の知行)を安堵され、尼崎郡代の地位を持続した。1607年(慶長12)尼崎に没した。尼崎郡代の職は子建部光重に、1610年から孫建部政長に引き継がれ、大坂の陣後に至った。
執筆者: 八木哲浩
法名は建部寿徳と号する。同時代史料には寿得と記すものが多い。
執筆者: apedia編集部