建部政長
たけべまさなが
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
尼崎およびその付近3万石の豊臣氏領を預かる尼崎郡代を勤めてきた建部高光-光重の跡をうけて、政長は1610年(慶長15)、縁者池田輝政のとりなしで、徳川家康の特別のはからいを受け、8歳ながら郡代の職と知行700石の継承を許された。この家康の恩義にこたえ、大坂の陣にさいして豊臣秀頼から郡代預り地の米を大坂城中に運び入れるよう催促をうけたが従わず、後見(尼崎代官)伯父下間頼広(池田重利)の援助を得て、家康のために尼崎を堅固に守った。この功によって1615年(元和元)7月、13歳にして摂津国川辺郡において5,614石余、西成郡において4,395石余、合わせて1万石を与えられ、近世最初の尼崎藩主となった。しかし尼崎にいること2年、1617年7月外様大名政長は、譜代大名の地となる尼崎から播磨国揖東郡のうちに移され、林田藩(1万石)となった。建部氏はここで定着した。
建部政長が摂津国内に1万石を与えられた2年後の1617年(元和3)7月に戸田氏鉄が近江国膳所から入封し、のちに青山氏(幸成系)・松平氏(信定系)と藩主が交替し近代初頭の版籍奉還・廃藩置県に至る近世尼崎藩が成立する。建部氏時代は、この尼崎藩成立の前史と見ることができる。