復興土地区画整理事業
ふっこうとちくかくせいりじぎょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
阪神電鉄本線ならびに阪神国道沿線を含む、東は杭瀬・梶ヶ島から西は難波〔なにわ〕・西本町に至る戦災跡地8地区(杭瀬北・長洲・杭瀬南・西長洲・大物〔だいもつ〕・東町・西本町・難波)234.4haを対象に、行政庁(市長)により1946年(昭和21)から1958年度まで施行された。事業費は2億7,500万円。
尼崎市は、1945年に数度にわたって米軍の空襲を受け、市街地中心部の罹災面積は430haに及んだ。翌1946年9月、前記の地域ならびに尾浜・潮江地区を含む330.6haを復興土地区画整理事業実施地区として、都市計画決定を行なった(のちに尾浜・潮江の両地区は、地元住民の反対や財政的理由により施行地区から除外)。当初5か年計画で事業を完了することとなっていたが、戦後のインフレーションにともなう国および地方財政のひっぱくから、3次にわたって施行期間を延長し、根拠法令である特別都市計画法の廃止もあって、施行者は工事の一部を残したまま1958年度までに逐次8地区の換地処分を行なった。事業は約300戸の要移転建物を残したまま収束、法に基づく事業修了後、現在に至るまで部分的に建物の移転と工事を施工している。種々の問題を残しながらも、市街地の中心部に施行した戦災復興事業は、杭瀬ならびに阪神尼崎駅周辺商店街をはじめ、各地区の焼跡の秩序ある復興を土地区画整理手法により実現してきた。