徳本上人
とくほんしょうにん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1758年(宝暦8)6月22日 - 1818年(文政元)10月6日
念仏の行者。紀伊国日高郡志賀村久志(現日高町)の人。大和・河内・摂津、のち関東・北陸にわたり行脚して道俗を化し、ついに江戸小石川の一行院で寂した。これより前、1798年(寛政10)、菟原〔うはら〕郡住吉村呉田(現神戸市東灘区)の吉田道円が父のため徳本を己が地の灘赤塚山(現神戸市東灘区)に庵を建てて迎え、徳本の行場とした。1827年(文政10)徳本筆の名号を刻した石碑が旧守部村の街道筋に面した字新田丸橋に建てられた(現在、南武庫之荘6丁目中の池公園に移設)。守部村や西武庫村の領主、旗本佐藤氏の発意によるもので、「石取」には守部全村があたり、周辺の西大島・今北・水堂・生津各村からも寄進があった。この地域にも徳本の信者が広がっていたことがわかる。なお、寺町如来院には徳本の等身大の木像(座像)と自作と伝える山下駄とがあり、木像は赤塚山徳本堂伝来のものと推定されている。
参考文献
- 『尼崎志』第1篇 1930 尼崎市