応仁の乱
おうにんのらん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
室町時代後期、九州と東国を除く日本を二分して争われた内乱、応仁・文明の乱ともいう。乱の表向きの原因は将軍義政と弟義視の家督争いに守護家の内紛が絡んだものだが、事実上の契機は畠山政長と同義就の山城守護職をめぐる抗争である。1467年(応仁元)5月に発生した内乱は京都の市街戦から始まり、しだいに洛外、地方へと波及した。義視を戴く西軍についた大内政弘は、九州や西中国の大軍を率いて同年7月兵庫に上陸し、8月には難波・水堂で東軍を撃破、疾風のように上洛を果たして一時は西軍が優勢となった。政弘は義視や山名持豊の推挙で西軍の摂津守護となり、摂津国欠郡(現大阪市北部)を拠点に摂津一国のほとんどを支配下に入れ掠奪して回った。大内氏の占領に抵抗した伊丹・池田の国人たちは、西軍の焦土作戦に大きな打撃を受け、地方にあって国人が台頭する状勢下にもかかわらず、畿内では国人が伸び悩む一因となった。政弘が1477年(文明9)に引き揚げた後、摂津は守護細川政元が専制化をすすめ、弱体化した国人をさらに圧迫してその大名化を妨げた。
尼崎地域では、1468年7月の椋橋城(現戸ノ内町)陥落、1469年(文明元)12月の神崎城攻防、1473年末の尼崎、大物〔だいもつ〕城陥落など、乱のあいだ戦いが相次いだ。
参考文献
- 永島福太郎『応仁の乱』 1967 至文堂
- 鈴木良一『応仁の乱』 1973 岩波書店