慶応4年多可郡一揆
けいおう4ねんたかぐんいっき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1867年(慶応3)12月ころから流行した「ええじゃないか」の踊りのさなか播磨国多可郡では、幕府領村々の郡総代多田村(現多可町加美区)庄屋小林仁兵衛に貢租米をめぐり不正があるという噂が流れた。これを基因として1868年正月18日、中村(現多可町中区)の五兵衛・坂本村(現多可町中区)の孫兵衛らが煽動して百姓が蜂起した。群衆は杉原谷を北上して小林仁兵衛宅外を打ちこわし、清水村(現多可町加美区)に至った。翌19日には中村を経て野間谷筋と杉原谷筋の2組に分かれた。産坂〔さんさか〕を越えて尼崎藩の飛び地下野間村(現多可町八千代区)に入った一組は庄屋村上五右衛門宅を襲った後、三原谷へ進み、引き返して野間谷を北上した。杉原谷を南下した一組は市原村・西田村(現西脇市)を経て西脇村(現西脇市)に至るが、20日には尼崎藩領中安田村(現多可町中区)で中安田組大庄屋津田喜兵衛宅など2軒が襲われた。
官軍先鋒長州藩世良脩蔵は小林仁兵衛以下28人が乱妨・火付けに逢ったと記している。一揆の鎮圧には小野藩があたり、主謀者ら12人を生野表へ連行したが、金蔵寺(現多可町加美区)住職小牧龍雄ら郡中寺院の連署で生野県事務取扱折田要に大赦を嘆願し、許された。
参考文献
- 脇坂俊夫『多可西脇の一揆と騒動』 1978