1610年代
(慶長19年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
年表:
10年紀: 1580年代 1590年代 1600年代 - 1610年代 - 1620年代 1630年代 1640年代
各年: 1610年 1611年 1612年 1613年 1614年 1615年 1616年 1617年 1618年 1619年
1610年代の年表
- 1610年(慶長15)
- 1611年(慶長16)
- 1613年(慶長18)
- 1614年(慶長19)
- 5月21日 - 尼崎郡代建部政長が幼少のため、家康は池田重利に尼崎代官を命じた。
- 9月 - この月から10月まで、畿内および諸国で伊勢踊りが流行した。
- 9月 - 大坂冬の陣に先立って、建部政長は大坂方からの代官所兵粮米の引渡し要求を拒み、代官所支配村々から人質をとって尼崎城に籠城した。
- 10月18日 - 松平利隆(池田利隆)が生島村・塚口村・長洲村それぞれ禁制を下した。
- 10月 - 板倉勝重が塚口村勝源寺(正玄寺)に禁制を下した。
- 10月 - 豊臣秀頼が塚口神家に禁制を下した。
- 11月1日 - 大坂冬の陣に際し、徳川家康は大坂方を経済封鎖するため小豆島およびその近辺3か国に塩・薪・魚類などを尼崎・堺へ輸送するよう命じた。
- 11月13日 - 徳川幕府重臣の酒井忠世らが西宮などに禁制を下した。
- 12月29日 - 大坂冬の陣に際し、大坂方の簿田兼相らが尼崎の年貢を取り立てに神崎の建部政長のもとまで来たが、尼崎城を守る松平忠利に拒まれ引き返した。
- 1615年(元和元・慶長20)
- 3月14日 - 大坂夏の陣に先立って、徳川家康は大坂方を経済封鎖するため九州・西国の諸大名にすべての廻船を尼崎へ入港させ、売払い米は尼崎から京都・伏見へ送るよう命じた。
- 3月 - 大坂夏の陣に先立って、幕府は松平忠利にかえて内藤信正に尼崎城の守備を命じた。
- 5月7日 - 大坂夏の陣により大坂城が落城し、翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿が自害し、豊臣氏が滅亡した。
- 7月21日 - 建部政長は摂津国川辺郡・欠郡に1万石を与えられ、尼崎代官職を引き継いだ。
- 7月21日 - 池田重利は、家康から川辺郡・欠郡に1万石の知行をうけた。
- この年 - 大坂城主松平忠明が京橋鮒市場を御用市場に指定し、沖合の魚は尼崎・堺から飛脚で搬入することになった。
- 1616年(元和2)
- 6月 - 尼崎の彦右衛門が葛網を持って長門国豊浦郡阿川浦へ出かけ、地元の漁民の協力で翌月までタイ漁を行なった。
- このころ - 建部与十郎は川辺郡・武庫郡の幕府直領代官として伊丹に在勤した。
- 1617年(元和3)
- 7月25日 - 譜代大名戸田氏鉄が、近江膳所ヶ崎より尼崎へ5万石の大名として所替えになった。
- 9月11日 - 建部政長が、尼崎から播磨国揖東郡(林田)へ所替えになった。
- 9月11日 - 池田重利が、尼崎から播磨国揖東郡(鵤)へ所替えになった。
- 9月11日 - 西新田村の新兵衛ら3人は、尼崎藩戸田氏から諸鳥と鷹の殺生免許および家役50石の諸役免許を許された。新兵衛は青山氏時代にも同様の免許をうけた。
- 10月14日 - 戸田氏鉄が尼崎に入部した。
- 10月14日 - 戸田氏鉄は、幕府から尼崎に新城を築くよう命じられた(尼崎城)。
- 11月19日 - 池田重利と建部政長が領した欠郡北中島村々分の尼崎城米高が、この日付で戸田氏に報告されている。
- 12月 - 本興寺の開山堂・戒壇院などが寺町に移築された。
- 12月 - 幕府が高槻城の修築を命令した。
- この年 - 戸田氏の尼崎入部に従って全昌寺・常楽寺・常隆寺などが近江国膳所から尼崎に移転した。
- 1617~35年(元和3~寛永12)
- 1618年(元和4)
- 1619年(元和5)