空襲

くうしゅう
戦災より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1944年11月、米軍はB29爆撃機部隊である陸軍航空軍第21爆撃機集団(のち第20航空軍)の基地をマリアナ諸島に建設し、以降日本への空襲を本格化した。市域では1945年3月から8月にかけて8回にわたって、B29による空襲被害を受けた。さらに3月19日には米海軍第5艦隊第58機動部隊の艦載機による機銃掃射、7月10日には硫黄島に基地を置く米陸軍航空軍第7戦闘機集団のP51戦闘機による爆弾投下・機銃掃射があった。B29の作戦と被害の詳細については、表1のとおりである。

  これらの空襲のうち、特に被害が大きかったのは、6月1日と15日の空襲であった。この両日は第2回と第4回の大阪大空襲の日にあたっており、1日は西長洲金楽寺・開明・杭瀬・梶ヶ島など、15日は難波〔なにわ〕・長洲・下坂部・立花・杭瀬・大物〔だいもつ〕・城内・開明など市内各所に焼夷弾による被害があったほか、15日には市内最大の軍需工場であった住友金属工業プロペラ製造所(現扶桑〔ふそう〕町・住友精密)が壊滅し、多くの工場や学校・病院などにも被害があった。また武庫川河口東岸の日本石油関西製油所ほかの石油施設を目標とした、7月19日と8月10日の空襲では、目標となった石油施設および隣接する日本発送電尼崎第一・第二発電所(戦後関西電力の発電所となる)が爆弾により破壊された。

  たび重なる空襲を受けたものの、南部臨海工業地帯の空襲被害は一部を除いて比較的軽く、また終戦時の罹災面積は当時の市域(現市域から園田村を除く)の13.4%にあたる5.29km2で罹災地域はある程度限られていた。大阪・神戸といった近辺の大都市や西宮・芦屋・明石・姫路などの県下の罹災都市と比較すると、人口に対する罹災者率もかなり低くなっている(表2参照)。これは、米軍が尼崎を大阪に付随する目標と考えていたことに起因している。B29の空襲8回のうち、明確に尼崎市街地を目標としたのは6月15日のみで、他は大阪または西宮以西の市街地を目標とした焼夷弾攻撃か、特定の工場に対する精密爆撃に際して目標をそれた焼夷弾・爆撃が被害をもたらしたのであった。また6月15日の目標は、南部臨海工業地帯を除く市域南部の市街地に設定されており、石油施設以外の臨海工業地帯を目標とする空襲は実施されずに終わった。

表1:尼崎の空襲一覧(B29爆撃機によるもの)

月日
1945年
3.13
~14
6.16.76.156.267.198.5
~6
8.9
~10
















爆撃時間
(日本時間)
夜間23:57
~3:25
昼間9:28
~11:00
昼間11:09
~12:28
昼間8:44
~10:55
昼間9:18
~11:02
夜間23:20
~24:00
夜間(6日)
0:25
~2:01
夜間23:59
~2:11
作戦類型大都市
焼夷弾
攻撃
大都市
焼夷弾
攻撃
大都市
焼夷弾
攻撃
大都市
焼夷弾
攻撃
精密爆撃
エンパイ
ア計画
精密爆撃
石油施設
爆撃
中小都市
空襲
精密爆撃
石油施設
爆撃
目標大阪
市街地域
大阪
市街地域
大阪
市街地域
大阪
~尼崎
市街地域
住友金属
工業
(大阪),
大阪陸軍
造兵廠
日本石油
関西
製油所,
日本
人造石油
尼崎工場,
陸軍
燃料廠
西宮
~御影
市街地域
日本石油
関西
製油所,
日本
人造石油
尼崎工場,
陸軍
燃料廠
出撃機数29550944951119184261107
爆弾投下機数2744584094441738325597
投下量
(米トン=907.2kg)
焼夷弾1,732.62,706.91,795.63,157.3--1,922.8-
高性能
爆弾
--749.8-1,140.0701.833.5918.0
その他-81.648.2---47.6-
人的被害死亡1248


64361001020479
重傷727324738643050709
物的被害全焼2783,4537,184--320-11,235
半焼10277429----716
全壊---58180-130368
半壊---71208-200479
罹災者数1,12111,31725,5654501,2411,2001,20042,094
  • 被害数値は『尼崎市史』第8巻掲載の尼崎市の報告書、他は米陸軍航空軍「戦術任務報告」による。
  • 爆撃時間・機数・投下量はいずれも表記の目標に対する作戦全体に関するものであり、必ずしも尼崎のみを対象とした時間・数値ではない。
  • 投下量の「その他」の大部分は、人員を殺傷して消火活動を妨害するために投下された破砕弾である。

表2:兵庫県下・大阪府下主要被害地域の罹災者率

区域名人口(人)罹災者数(人)人口に対する
罹災者率(%)
尼崎市270,07342,09415.6
西宮市127,45767,86753.2
鳴尾村47,03119,99342.5
芦屋市37,76218,17148.1
本庄村16,64215,65694.1
神戸市918,032470,82051.3
明石市78,58549,35662.8
姫路市102,35957,46656.1
大阪市2,842,9781,135,14039.9
堺市257,49972,43928.1
  • 人口は総理府統計局『昭和19年人口調査集計結果摘要』記載の1944年2月22日現在の数値
  • 罹災者数は『尼崎市史』第8巻兵庫県土木部計画課『復興誌』(1950)・大阪市『大阪市戦災復興誌』(1958)・三省堂『日本の空襲』6 近畿(1980)による。

執筆者: 地域研究史料館

参考文献

  • 内田勝利「尼崎市の戦災資料」『地域史研究』第2巻第1号 1972
  • 内田勝利「尼崎市の戦災資料補遺」『地域史研究』第2巻第3号 1973
  • 内田勝利「尼崎市の戦災資料続々」『地域史研究』第8巻第1号 1978
  • 地域研究史料館「兵庫県下の空襲に関する米軍戦術任務報告」(1)(2)『地域史研究』第18巻第1号・第3号 1988・1989
  • 辻川敦「尼崎の戦災」『大阪春秋』第58号 1989 大阪春秋社
  • 辻川敦「第二次世界大戦における米軍の対日爆撃戦略」『地域史研究』第21巻第3号 1992

関連項目

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