承久の乱
じょうきゅうのらん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒をめざして起こした兵乱。承久の変ともいう。鎌倉幕府の出現によって大きな打撃をうけた京都朝廷では、後鳥羽上皇の代になると朝権の挽回につとめ、上皇の寵姫亀菊の所領倉橋荘(椋橋荘)などで地頭改易問題をひきおこした。この地頭改易問題が失敗したのを契機に、上皇はついに1221年(承久3)5月討幕の兵を挙げた。しかし、戦いはわずか1か月たらずで幕府の勝利に終り、後鳥羽上皇ら3上皇を配流し、院方の所領3,000余か所を没収して新たに地頭を設置するなど、幕府の勢力が著しく伸張した。乱の直後にだされた東大寺領荘園23か所にたいする武士の狼藉を禁じた官宣旨のなかには、市域の猪名荘の名前もあがっており、この地域でも戦乱に乗じて荘園を侵略する武士が輩出したことを物語っている。