摂関家
せっかんけ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
摂政・関白に任ぜられる貴族の家柄。藤原氏のうち北家出身の良房が858年(天安2)に摂政、ついで基経が摂政・関白に任ぜられてから、摂関の職がこの系統に固定した。藤原道長が摂関政治の最盛期をきずくと、摂関の地位は北家のなかでも道長の子孫に定着し、摂関家はもとより、その氏寺の興福寺、氏神の春日大社なども膨大な荘園が寄進されるにいたった。摂関家は、平安末期に近衛家と九条家に分立し、さらに鎌倉中期にも一条・二条・鷹司の諸家が分立して、五摂家といわれ、以後このうちから交互に摂政・関白に就任する者がでた。市域には、近衛家領の橘御園・椋橋西荘、九条家領の潮江荘・富島荘・生島荘などの諸荘園が存在した。また、大島雀部〔ささべ〕荘・富松荘・野間荘のように、もと摂関家領で藤原頼長が所有していたが、保元の乱で頼長が敗死したため没官されて、後院領になったものもある。
参考文献
- 橋本義彦『平安貴族社会の研究』 1976 吉川弘文館