新田開発
しんでんかいはつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
尼崎市域・大阪市域西部において大規模に開発された新田は、河口を含む海岸地帯が多かった。17~19世紀に次第に開発され、新田と称されてもその多くの土地は畑地であった。尼崎市域では、17世紀に竹谷新田・道意新田・又兵衛新田が、18世紀には初島新田・新城屋新田・東西高洲新地・大浜新田が、19世紀には平左衛門新田・大高洲新田・西御見立新田などが開発されている。尼崎藩では、藩の奨励もあって青山幸成と青山幸利の2代の藩主の時代にめざましく新田が開発された。1664年(寛文4)当時、藩領全域で4,000石近くあった新田のほとんどはこの時期に開発された。幸成時代にも今北村の長兵衛新田(1636年・寛永13、96石余)その他が開発されたが、幸利の代(1643~1684)にはさらに大規模に進められ、4,000石を本高に繰り入れた1664年以降にも、さらに1,500石の新田が開発された。市域の大規模な新田は大阪市中や尼崎城下などの商人による個人または共同の請負で開発、維持される場合が多かった。道意新田は大坂玉造の商人鍵屋などを中心となって開発し、新城屋新田開発の新城屋は酒造家であった。藩の掛屋も務めた尼崎町の本咲(泉屋)利兵衛は東高洲新地の開発に関わり、又兵衛新田・大浜新田・新城屋新田を買い取っている。