日亜製鋼
1934年(昭和9)、尼崎市と大庄村の臨海部に造成されたばかりの工業用地約50万m2の一角、大庄村中浜新田地先の埋立地6万6,000m2(現尼崎市鶴町)に日本亜鉛鍍(株)の新工場が完成、翌1935年帯鋼工場が、1938年春には2基の平炉が操業をはじめた。1939年、資本金1,000万円に増資するとともに日亜製鋼(株)と改称、ここに「鉄の街」尼崎の中核を担う平炉メーカーの一つが誕生した。
日本亜鉛鍍(株)は、大阪市西区南境川にあった分工場を田中亜鉛鍍金工場の田中松之助・徳松父子が現物出資、佐渡島英禄・津田勝五郎など大阪の有力金融問屋の資金によって設立された平浪鉄板鍍金合名会社が、翌1918年(大正7)改組・改称したもので、西成郡伝法町の新工場で亜鉛鉄板の製造を行なっていた。
新発足した日亜は、満州事変以来の鉄鋼需要の拡大と価格の急騰、さらには製鉄事業法などに見られる政府の産業政策の転換に助けられて繁忙をきわめ、収益も大いにあがった。1941年には隣接する日本曹達(株)製鋼所を買収、中型・小型圧延、鍛造などの工場を拡張するとともに上海、呉淞〔ウースン〕など中国にも工場進出を行なった。1944年には軍需会社に指定されたが、すでに数年前から原・燃料の不足、熟練労働者の出征によって生産は停滞していた。
空襲の被害が軽微だったことも幸いして戦後の再開は早く、尼崎では1946年に圧延設備が、1948年には平炉が稼動を始めた。同時にいち早く呉海軍工廠跡に新鋭工場建設を決定、この呉工場で1951年には平炉、1953年には日本で3基目のストリップミルを稼動させた。すでにこのころ、尼崎には新工場の立地余地は乏しく、そのうえ地盤沈下による浸水被害が立地のデメリットとして数えられていたのだった。呉工場の稼動で日亜の生産量は倍々で増加したが、その反面、尼崎工場の占める相対的な比重は1953年から1958年の間に、粗鋼生産では61%から33%へ、鋼材生産では100%から32%へと急激に低下していった。生産性の格差も大きく、同時期、両工場間では2倍から4倍近い差が生じていた。一方この時期、日亜は苦境に際会していた。折からのデフレ不況の中、新工場建設の所要資金調達が不調のうえ需要不振も重なって、1954年には創業来初の赤字に陥ったのであった。そこで八幡製鉄(株)に救援を求めるとともに、第2次設備投資計画の中止、人員整理などの合理化を実施した。八幡製鉄とはこれより前の1952年、銑鉄の安定調達のための経営提携が行なわれていたが、このとき以降、素材調達・販売・設備・資金などに及ぶ系列関係が深まった。
1959年、八幡製鉄の戦略に沿って日亜は日本鉄板(株)と合併、日新製鋼(株)として新発足する。重複投資を避けつつ、あらゆる品種での競争力強化を狙いとした傘下企業の再編策であった。この結果、工場間分業と高効率工場への集約が強力に推進されてゆく。当初尼崎工場は鋼材では帯鋼の、製鋼では特殊鋼の生産が割り振られていたが、1962年の不況に際しては、最も製鋼コストの高い尼崎の平炉は封印され、尼崎工場は「関西の表面処理センター」として位置づけられた。翌1963年から圧延部門の設備が次々に休止されてゆき、1965年には平炉操業を停止、それに代わって工場には特殊連続亜鉛めっき・連続カラー塗装・連続帯鋼亜鉛めっきなどの加工設備が新設された。こうして1930年代半ば以来、「鉄の街」を体現してきた有力平炉メーカーの一つ、日亜製鋼は名実ともに解体し、30年を隔てて再び鉄鋼2次加工工場に転換したのであった。呉工場では1962年6月、1号高炉が出銑をはじめ、日新製鋼は日本で9番目の高炉メーカーに転身した。
1980年代、日新製鋼尼崎工場は3度目の変身を果たす。1985年2月に尼崎製造所と改称し、ステンレス鋼管の専門工場となった。
2016年4月、日新製鋼は日新製鋼ホールディングス及び日本金属工業と合併し、新たに日新製鋼として発足した。同時に同社尼崎製造所が日新製鋼から分離し、日金工鋼管との統合により日新製鋼ステンレス鋼管尼崎工場となった。
参考文献
- 『日亜製鋼50年史』 1960
- 『日新製鋼新発足10年史』 1969
- 『日新製鋼30年史』 1991
- 名和靖恭「高度成長第一期における尼崎市域鉄鋼業の『再編』過程」『地域史研究』第8巻第3号 1979