日本スピンドル製造
多能多才の創業者桑田権平が、綿紡績機の最重要部品であるスピンドル(錘=つむ)の国産化を意図して、大阪市大淀区に資本金3,000円、社員9名で浦江製作所をはじめたのが1918年(大正7)。桑田は1870年(明治3)東京生まれ、13歳でアメリカ留学、マサチュセッツのウスター工業大学で機械技術・工場管理を学んだ。1893年帰朝後は大阪砲兵工廠で蒸気機関の設計や綿火薬の製造に、川崎造船所では新しい工場管理システムの実施などに携わり、かねて念願の機械工場設立は桑田47歳の時であった。
翌々1920年には、資金面で松方幸次郎の援助も得て、小田村久々知に約1万2,000m2の用地を買収、神崎工場を建設。同時に社名も日本スピンドル製造所と改称した。当時、国内で稼動していた綿紡績機錘数は約300万錘といわれるが、機械はもとより部品も大部分が輸入に依存していたため、折から第1次大戦によって輸入が途絶、国産化が待望されていた。しかしこの部品は、常時高速回転するうえ振動ぶれが許されず、磨耗に対する硬度も必要な部品とあって、輸入品に対抗できる製品が完成するまでには熱処理をはじめいくつもの隘路を克服しなければならなかった。
1936年(昭和11)末には月産能力もスピンドル10万錘・リング13万個・フルーテッドローラー600連に達したが、1930年代後半には生産品目のほとんどは、航空機爆弾発火装置や対戦車砲弾丸信管装置など軍需用が占めた。1941年には、企業統合政策により日本内燃機(株)と合併、同社尼崎製造所となる。戦後は企業再建整備法にもとづく日本内燃機(株)の乙第2会社、日本スピンドル製造(株)として1949年4月に新発足し、1951年には大阪証券取引所へ上場する。1958年の紡績不況を機に「部品専業から脱皮」を掲げて紡機関連品目のシステム製品化、金属サッシ・産業機器生産などへの多角化を展開するが、1961年には繊維依存の販売体制の再編を主な狙いとして、住友機械工業との業務提携が行なわれた。
参考文献
- 『日本スピンドル70年史』 1988
- 『桑田権平「自伝」』 1958