日本リーバ・ブラザーズ
イギリスの国際資本リーバ・ブラザーズ社は、早くから日本にグリセリン・石鹸などを輸出していたが、1910年(明治43)外資第1号として日本リーバ・ブラザーズを設立、大庄村又兵衛新田に工場を建設した。日本近海産の低廉な魚油、満州から入る大豆に着目した日本進出で、硬化油や石鹸の製造設備、グリセリンの精製設備などをイギリスから持込み、一貫生産を意図していたといわれる。当時の日本では、菜種や大豆から搾油業、小規模な石鹸工場がある程度だったから、リ社が1913年(大正2)にはじめた硬化油生産は日本では最初であり、その後の油脂工業に大きな影響をもたらした。
第1次大戦開戦のころからは国内の企業の進出も相次ぎ、硬化油輸出もはじまっていたが、1918年大戦終結とともに輸出が激減、そのうえ輸入関税の撤廃によって豪州産の牛脂が流入、業界に打撃を与えた。1925年リ社は工場を松方幸次郎が社長をつとめる神戸瓦斯に売却して上海に撤退、尼崎の工場は大日本石鹸(株)となった。翌1926年ベルベット石鹸と改称するが、当時化粧石鹸では花王・ミツワに次いで3位の、洗濯石鹸では合同油脂に次ぐ2位の市場シェアを占めていた。1936年(昭和11)7月になって全株が神戸瓦斯から日産コンツェルンの手に移り、翌1937年3月には日産傘下の日本食料工業(株)のいわし肥料部門、魚糧会社20数社、国産工業(株)不二塗料製造所と統合して日本油脂(株)と改称した。さらに同年6月、合同油脂(株)との合併による総合油脂化学企業・日本油脂(株)の誕生によりその尼崎工場となった。1941年からは軍の指令によって専ら航空潤滑油の生産を行なっていたが、戦災被害は軽微だった。
戦後は親会社の日産化学工業(株)が財閥制限会社として、6社への分割指定を受け、1949年の企業再建整備計画により新しい日本油脂(株)が新発足、同社尼崎工場となった。
2007年10月、日本油脂(株)は日油(株)に社名を変更した。
参考文献
- 『日本油脂三十年史』 1967
- 『日本油脂50年史』 1988
- 日本油脂『尼崎工場80年のあゆみ』 1990
- 日本油脂尼崎工場『-年史-躍動の90年』 2000
- 山内昌斗「英国企業の極東戦略と尼崎-1910-1925年の間におけるリーバ・ブラザーズ尼崎工場-」『地域史研究』第33巻第2号 2004