日本労働組合評議会
にほんろうどうくみあいひょうぎかい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
略称「評議会」。1925年(大正14)日本労働総同盟(総同盟)の第1次分裂により左派32組合1万2,600余人を結集して発足。共産党の影響下に三悪法反対・浜松楽器争議など活発な運動や争議を展開した。尼崎では第1次分裂に際し、藤岡文六らの指導もあり全員総同盟に踏み止まった。評議会は末組織労働者を広く結集して闘争を発展させるため工場代表者会議(工代会議)を提唱し、1927年の乾鉄線争議では6月8日市立図書館に30工場、136人の代表を集めた。しかし組合同盟本部は工代会議に反対し、争議の指導に当たっていた評議会および関西合同労働組合と対立した。争議敗北後同労組の組織人員は激減し、3.15事件後の解散命令によって評議会も消滅したが、日本労働組合全国協議会(全協)として再建された。