日本硝子工業尼崎工場
にほんがらすこうぎょうあまがさきこうじょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
従来の「手吹き」に代わって機械による自動製壜を行なうため、1916年(大正5)6月、日本硝子工業(株)が資本金300万円で大阪市内に設立された。杉田與三郎・島定次郎他が発起し、大日本麦酒と麒麟麦酒が参加した。これより前、シカゴ大学を出た後、島商店輸出部の責任者をしていた杉田は、1913年、米・オーエンス社との間で自動製壜機の特許権を300万円で譲り受ける商談をまとめていたのだった。3分の1は現金、3分の1は7分利付き社債で払い、残り3分の1はオ社が新会社に現物出資するという条件であった。早速横浜には保土谷工場が、つづいて1918年5月、新城屋新田(現西向島町)に尼崎工場が設けられ、日本初の自動製壜機が稼動をはじめたのであった。機械は、真空の作用で壜型にガラス素地を吸い上げ、これを仕上型に移して圧搾空気で成形する方式で、高能率であるとともに品質・サイズの均一化などでも画期的なものであった。この直後、杉田は新式(コルバーン式)の板硝子製造の特許導入契約をまとめるが、会社の積極的賛同が得られなかったため、杉田らは別に日米板硝子(のちの日本板硝子)を設立する。
1920年、日本硝子工業の大日本麦酒への合併にともない、尼崎工場は同社製壜工場となるが、1936年(昭和11)11月には大日本麦酒傘下の5工場が統合され、日本硝子(株)が新発足した。
1950年9月、日本硝子は新日本硝子工業(株)と新日本硝子(株)に分割され、尼崎工場は新日本硝子工業に引き継がれた。1951年11月、新日本硝子工業は日本硝子(株)に社名を復した。1998年10月日本硝子は山村硝子(株)と合併、日本山村硝子(株)となった。
参考文献
- 杉江重誠『日本ガラス工業史』 1950