日本紡織労働組合

にほんぼうしょくろうどうくみあい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  深夜業廃止が間近となり、これを口実とした実質賃金低下を防止するため1929年(昭和4)1月組合同盟の指導のもと大阪合同紡績神崎工場に杭瀬支部(250人)がつくられ、これに大日本紡績尼崎工場合同毛織戸之内工場などを加えて同年2月、日本紡織労働組合関西支部連合会(1,658人、のち関西本部)が結成された。総同盟系の尼崎紡織労働組合と鋭く対立し、功名争いもからんで両組合が競合、同年5月闘争に起き上がり工場脱出ストを敢行した尼崎紡織労働組合の合同紡神崎工場争議に対しても、日本紡織労働組合は独自の立場を取りつづけ共闘は実現しなかった。1930年10月日紡で同労組杭瀬第2支部中村支部長夫妻が解雇されたことに対する反対闘争などを展開、東洋紡績と合併されることになった合同紡の人員整理問題をめぐり、同年11月16日杭瀬の都座で従業員大会を開き8項目の要求を決定したが、組織分裂に災いされストも打てぬまま1931年2月一旦解雇、再採用で妥結した。

執筆者: 久保在久

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