日本鍛工
にほんたんこう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
多くの合併の来歴を持つが、源は1924年(大正13)、芝柳新二によって大阪市大正区内に創設された恩加島〔おかじま〕鉄工所で、鉄道車両や船舶部品などに使われる鍛工品の製造販売を事業目的にしていた。芝柳はこれより前、1918年に久保田鉄工所が尼崎市大洲〔おおす〕に関西製鉄を設立し操業を試みた折、同製鉄専務として久保田社長を助けた人物で、それまで久保田の営業部長であった。
満州事変勃発後の1933年(昭和8)、西淀川区佃に神崎工場が建設され、恩加島から主要設備を移設して操業が開始された。翌1934年、恩加島鉄工所は資本金500万円の株式会社に改組された。一方1937年8月には、神奈川県川崎市に資本金500万円の日本鍛工(株)が設立され、同時に鍛造品を生産するための川崎工場建設も着手された。
同年末、日本鍛工(株)と恩加島鉄工所との合併がはかられたため、新会社は川崎・恩加島・神崎の東西3工場を擁することになった。さらに、太平洋戦争開戦の迫った1941年には、武庫郡大庄村字又兵衛住吉(敷地39万6,000m2)に新設の尼崎工場が完成、本社機能を尼崎に移すとともに恩加島・神崎両工場の機能も尼崎に集約された。つづく1943年には、神奈川県下に秦野工場が操業を開始、軍用機や水中兵器用の部品を生産した。
戦後1948年、企業再建整備法にもとづき日本鍛工(株)は3分割され、川崎工場と秦野工場はそれぞれ現在の(株)シンニッタン・日鍛バルブ(株)に、尼崎工場は西日本鍛工(株)となった。西日本鍛工は1954年再び日本鍛工(株)に改称、1961年には大証2部に上場した。1965年大同特殊鋼(株)の資本参加を受けた。
参考文献
- 『大同製鋼50年史』 1967