日本麦酒鉱泉尼崎工場

にほんびーるこうせんあまがさきこうじょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1918年(大正7)11月、山為硝子製造所の山本為三郎を中心に濱口吉右衛門、和田豊治らが発起人となって日本製壜(株)が発足した。すでにこの年の5月、日本硝子工業が日本初の自動製壜工場を稼働させており、日本製壜の設立もまた、自動製壜機による飲料用ガラス壜の大量生産を目的とするものであった。尼崎市大洲村初島(現北初島町)に新設された工場に米国から輸入したオニール式半自動製壜機が設置され、1919年12月日本製壜の工場が操業を開始した。

  1921年5月11日、加富登麦酒が日本製壜と帝国鉱泉を合併し、新たに日本麦酒鉱泉(株)が発足したことにより、日本製壜の工場は同社の尼崎工場となった(『大日本麦酒株式会社三十年史』に記述された1922年は誤りと思われる)。その後製壜機の全自動化などにより設備を拡充し、生産された各種の壜は国内のみならず中国・インド・南洋方面へも輸出された。1933年7月、日本麦酒鉱泉の大日本麦酒との合併に伴い大日本麦酒の初島工場となったが、1934年9月の室戸台風によって大きな被害を受けたため、設備を他の工場に移して閉鎖された。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 杉江重誠『日本ガラス工業史』 1950
  • 『大日本麦酒株式会社三十年史』 1936
  • 『Asahi100』1990
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