旭硝子
三菱財閥の岩崎弥之助の次男俊弥が窓ガラスの国産化を目的として1907年(明治40)9月8日、資本金100万円の株式会社として創設した。株式の過半は俊弥・輝弥兄弟が出資しほとんど三菱直系といってよい会社。本社は旧尼崎町の中在家町であった。1909年3月13日、新城屋新田(現西向島町)に工場が完成し、ベルギーから技術者を招き、手吹式円筒法により1909年11月27日に操業を開始したが、当初は欠損つづきであった。1914年(大正3)北九州の牧山工場、1916年鶴見工場でラバース式機械吹円筒法をはじめた。外資5万ポンドを低利で借入れるなど資金・製品販路等財閥としての有利性があり、当時日本で唯一の板ガラス工場として発展した。1917年12月1日、本社を東京に移転、1919年7月29日には尼崎工場で労働争議発生(旭硝子争議)、翌年旧式の同工場を閉鎖し大部分の労働者を解雇、最新式のフルコール式引上設備をベルギーから導入し、1928年(昭和3)10月15日、新尼崎工場を再開した。1936年は第2工場を増設し12月26日製造開始、生産額は急増した。また原料のソーダ製造は牧山工場の設備を拡充して増産し、自社以外にも供給した。
1944年4月1日、日本化成工業(株)と合併して三菱化成工業(株)となり、1950年6月1日旭硝子として分離再発足した。1962年7月1日、系列の旭加工硝子(上坂部字土井ノ内、現上坂部1丁目)を合併して塚口工場とし、1969年7月1日には尼崎・塚口・淀川の3工場の機構を統合して関西工場とした。さらに塚口工場は、1982年7月にオプトレックス(株)尼崎工場となった。現在旭硝子は各種ガラス製品のほか化学製品・セラミックスなど幅広い生産活動を行っており、関西工場は今なおガラス製造の主力工場としての位置を占めている。
参考文献
- 『社史 旭硝子株式会社』 1967