明和6年の上知

めいわ6ねんのあげち(じょうち)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1767年(明和4)長崎奉行石谷清昌が長崎から江戸へ帰る途次、命じられて摂津・河内を巡見し、灘地方の酒造地帯の豊かな風景をみて、その公収を幕府に進言した。それにもとづき、1769年2月尼崎藩領西宮兵庫津の2町と灘地方村々、武庫郡2村、菟原〔うはら〕郡17村、八部〔やたべ〕郡3村、計22村(うち相給の村5村)が公収された。ほかに3藩・5旗本の所領13村(相給6村)も公収され、上知は合わせて2町32村に及んだ。尼崎藩は高1万4,000石余りを公収され、播磨(多可・宍粟〔しそう〕・赤穂3郡)に71村1万9,000石余りの替え地を与えられたが、豊かな地方の公収は財政的に大きな打撃となった。西宮商人の資力に頼って発行してきた尼崎藩札の整理、藩札制度の転換も余儀なくされた。譜代大名尼崎藩の弱体化が幕府に不利をもたらしたとして、植崎九八郎が上知令の撤回を求める上書を出したことも一理あることであった。

執筆者: 八木哲浩

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