1869年
(明治2年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
世紀: | 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 |
年表 10年紀: | 1840年代 1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 |
周辺の年: | 1866年 1867年 1868年 1869年 1870年 1871年 1872年 |
明治2年
- 1月12日 - 尼崎藩は、浦廻り方を商船方に、宗門方を社寺所に、船奉行を舟船所にそれぞれ改称すると触れた。
- 2月27日 - 尼崎藩が版籍奉還を新政府に願い出た。
- 4月10日 - 久我通城が兵庫県知事に任命された。
- 5月21日 - 中島錫胤が兵庫県知事に任命された。
- 6月20日 - 尼崎藩は版籍奉還を勅許され、藩主桜井忠興が藩知事に任命された。
- 6月20日 - 陸奥宗光が兵庫県知事に任命された。
- 7月17日 - 税所長蔵が兵庫県権知事に任命された。
- 7月 - 尼崎藩は、藩治改革の最初として大参事以下の職員を人選し、その承認を新政府に申請した。
- 8月11日 - 尼崎藩知事桜井忠興が尼崎に帰着した。
- 8月24日 - 函館戦争で捕えられた元静岡藩の五島勇・元会津藩の東条一ら4人が、尼崎藩に預けられた。
- 9月7日 - 元尼崎藩主桜井忠栄が尼崎で没した。
- 9月30日 - 尼崎藩の民事課社寺支配は、商船方の廃止にともない船についての諸願等を今後は同役所へ差し出すよう触れた。
- 9月 - 尼崎藩は1両券など3種の金札1万両を、尼崎の本咲利兵衛など商人3人あての手形形式により発行した。
- 11月25日 - 大阪裁判所は、従来摂津・河内両国328か村に限られてきた大阪市中の下屎受入れ村々の制限を廃し、市中と村々の協議により受入れ先を取り決めてかまわない旨を布達した。
- 12月3日 - 善法寺・小中島など新政府直轄領18か村の小作人が猪名川河原に集まったのち、清水村から潮江村まで村々の庄屋・地主の家を打ちこわした(明治2年川辺郡一揆)。
- 12月5日 - 善法寺・小中島など新政府直轄領の18か村の農民1,000人ばかりが、竹槍をもって上坂部村の西正寺に押しかけ、貢租の半減を要求した(明治2年川辺郡一揆)。
- 12月24日 - 18か村騒擾の主謀者として入牢取調べをうけていた善法寺・小中島両村の5人が無罪放免され、また村預け謹慎を命じられていた小中島・穴太・善法寺各村の3人も釈放された(明治2年川辺郡一揆)。
- この年 - 生魚問屋碇屋が、禁裏御用商人手平屋と直場屋による明石船との取引き独占を廃止してほしいと尼崎藩に願い出た。
- この年 - 城下の尼崎荒物仲間は、樽巻菰・縄の取引きに関して市域東部の生産地村々24か村と証文を取りかわした。