明治2年川辺郡一揆
めいじ2ねんかわべぐんいっき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1869年(明治2)12月川辺郡の旧幕府領・旗本領を主とする政府直轄領18か村の農民が、清水村など7か村の庄屋・地主の家々を打ちこわす大一揆が発生した。この年大雨で凶作となったうえに太政官札の乱発で米価が暴騰し、特に日雇稼人や下層の小作農民が困窮した。そこで12月3日深夜川辺郡清水村をはじめ18か村の小作人が藻川大井樋表の川原に集まり、清水・下食満・小中島・善法寺・次屋・潮江・下坂部各村の庄屋・地主を襲撃し、家屋・土蔵を打ちこわした。一揆勢が上坂部村の西正寺で朝食をとっているとき西正寺をはじめ近辺の8か寺が地主との間を仲介すると申し出たので一揆勢はいったん引き上げたが、翌5日正午ごろ約1,000人の農民が竹槍をもって再び西正寺に押しかけ、当初の小作料減免要求からさらに年貢半減の実現を求めた。前日の4日には県の役人30人あまりが来ていたが、この年貢半減の要求は容れられず実現しなかった。主謀者5人が入牢、取調べをうけたがやがて放免された。旧領主の支配が弱化し、旧所領を管理する県もまだ体制がととのっていなかった維新直後の混乱期であっただけに、江戸時代以来この地方にはほとんどみられなかった一揆が起こったのである。年貢半減は実現しなかったが、小作料の減免は寺の仲介もあってある程度実現したようである。
参考文献
- 小林茂「明治変革期における農民闘争」(1)(2)『ヒストリア』第12号・第13号 1955