1871年
(明治4年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
世紀: | 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 |
年表 10年紀: | 1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 1890年代 |
周辺の年: | 1868年 1869年 1870年 1871年 1872年 1873年 1874年 |
明治4年
- 1月13日 - 築地町の家持ちらは、町内支配懸りが近年多額になっているとして、惣代を他町と兼帯にして経費を節減してほしいと年番組頭に申し入れた。
- 1月14日 - 尼崎藩の捕亡町掛りは、藩内に洋学所が開設されるので志望者は申し出るようにと触れた。
- 1月 - 兵庫県は、旗本青山氏4家(青山氏(幸澄系)・青山氏(幸通系)・青山氏(幸正系)・青山氏(幸高系))の旧領村々の願いにより、正租に付加されてきた延米の廃止許可を政府に伺った(許可)。
- 3月12日 - 兵庫県から田中村の岡田藤吉を含む41人が徴兵され、大阪兵部省に入営した。
- 4月2日 - 尼崎藩の商法役所は、搗米の糖を相応の相場で買上げて国産に取立てるので、糖を売買する者は大物橋南詰の物産役所へ差出すようにと尼崎惣町に触れた。
- 4月 - 川辺郡村々は、兵庫県から戸籍改制の仕法書ほかを下付され、同月16日から30日間で調査を終了する旨の請書を提出した。
- 5月18日 - 高潮のため、又兵衛新田死者119人、中浜新田死者20数人、丸島40戸余流失・死者多数の被害が出た。
- 6月17日 - 尼崎藩は、前月の暴風雨・高潮被害の復旧費として尼崎城詰米1,900石余の支出許可を政府に願い出た(不許可)。
- 7月8日 - 尼崎藩は大庄屋を何組何箇村取締里正、庄屋を里正、年寄を村吏と改称した。
- 7月15日 - 前日(7月14日)に発せられた廃藩置県の詔により、桜井忠興は尼崎藩知事を免じられ、尼崎藩が尼崎県となった。
- 7月19日 - 太政官は、県治規則の制定まではとりあえず各県の大参事が庶務を処理し、重大事件は政府に伺うようにと県および元藩に布達した。
- 8月17日 - 旧尼崎藩知事桜井忠興は、東京への移住にさいして尼崎町の名主・組頭を私邸に呼び、別れの盃を与えた。
- 8月20日 - 尼崎県は、今後すべての臣民が最寄りの神社の氏子となり、姓名・生年月日・父親名を記した守札を所持すべき旨を定めた太政官布告を触れた。
- 8月 - 兵庫県は管内を64区に区画し、区ごとに戸長1人を設置した。
- 9月25日 - 尼崎県は、穢多・非人の称を廃し、身分・職業とも平民同様たるべきとの太政官布告を、尼崎町名主・惣代に布達した。
- 9月 - この時点の鴻池善右衛門に対する旧尼崎藩の負債は、金3,150両余、銀373貫余であった。
- 10月 - 東京-長崎間の郵便路線開発にともない、尼崎の郵便継立方に渡辺治平が任命された(尼ヶ崎郵便取扱所)。
- 11月15日 - 神田孝平が兵庫県令に任命された。
- 11月20日 - 府県統合の布告により尼崎県・小泉県・額田県(半原県が改称)が兵庫県に統合され、摂津国西部5郡一円を管轄する第2次兵庫県が成立した。
- 11月 - 火付け・盗賊・人殺しなどの召捕りに協力せよとの太政官布告にもとづく兵庫県庁の高札が、穴太村に掲げられた。
- 12月5日 - 尼ヶ崎郵便取扱所が、渡辺治平宅を仮設所として開設された。
- 12月23日 - 播磨国多可・宍粟・赤穂3郡の尼崎県管轄所村々50か村が、飾磨県に移管された。
- 12月25日 - 旧尼崎県常備兵および予備兵(旧尼崎藩兵)が解隊された。