時友

ときとも
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  武庫地区の大字。市域北西部に位置する。友行にかけて平安~鎌倉時代の時友遺跡がある。史料上の初見は1422年(応永29)「足利義持寄進状」(醍醐寺文書/『尼崎市史』第4巻)で野間庄内時友名〔みょう〕とある。野間荘の名田開発領主名に由来する地名であろう。隣村の友行も同荘の名田であり、中世から近世にかけて野間荘が野間・友行・時友の3村に分離していったものと考えられる。

  近世初期には幕府領1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に268.92石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に307.973石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数42軒、人数212人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には41軒、220人とある。富松井組に属した。氏神は友行の須佐男神社(近世には牛頭天王社)が両村立会、寺院は浄土真宗本願寺派万福寺。

  1889年(明治22)以降は武庫村1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。19651989年(平成元)の住居表示により武庫之荘の一部および武庫の里となったほか、一部が武庫之荘本町・西昆陽〔こや〕となり、時友という地名は消滅した。

執筆者: 地域研究史料館

  氏神は、天明年間(1781~1789)に社殿が焼失して以来、隣村である友行須佐男神社に合祀されていたが、1962年(昭和37)に時友神社として再建された(兵庫県神道青年会尼崎市支部発行『尼崎神社あんない-市内六十六社のしおり-』改訂版-平成13年-による)。

執筆者: apedia編集部

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