普選

ふせん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1888年(明治21)の市制・町村制をはじめ郡制府県制・衆議院議員選挙法によって各級の議員選挙制度が定められたが、いずれも選挙権に納税額・性別・在住期間・信仰・職業・戸籍上の地位等種々の制限がある制限選挙制で、また市町村会には等級選挙制郡会には複選制・大地主議員制など独特の制度もあった。これらは1899年の郡制・府県制の改正、1919年(大正8)の選挙法改正などによって部分的には改廃されていたが、納税要件・等級制などを完全に撤廃し普通平等の選挙を実現しようとする普選運動は、第1次大戦後労働運動を基礎として都市小市民層をふくむ広範な国民運動として展開した。1919年友愛会などを中心として普選期成関西労働連盟が結成されたが、尼崎でも1922年1月尼崎普選促進同盟会が市立図書館で演説会を開き、普選断行を要求する宣言・決議を行なった。翌年2月には普選と女子参政権、国民生活安定を政綱とする兵庫県青年党が、尼崎市で演説会を開いた。このような国民運動の高まるなか1924年5月の総選挙で立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3政党が大勝していわゆる護憲三派内閣が成立し、翌年3月満25歳以上の男子に納税額その他の制限なく選挙権を与える普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が成立した。翌1926年府県制・市制・町村制の改正により地方議員も普通選挙となり、市会の二等級制も廃止された。これによって労働者や下層の農民も選挙に参加できることになったので、にわかに無産政党が結成された。尼崎での最初の普選法による選挙は1927年9月の県会議員選挙で有権者は従来の約4倍となった。翌年2月には衆議院総選挙が、5月には尼崎市会議員選挙が行なわれ、山下栄二藤岡文六ら4名が無産政党から当選した。第2次大戦後1945年選挙法改正によって、はじめて女性が選挙権を有することになり、また男女とも年齢制限が満20歳に引き下げられた。

執筆者: 山崎隆三

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