朝鮮人強制連行
ちょうせんじんきょうせいれんこう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1939年(昭和14)9月から国民徴用令の準用で2年契約による多数の朝鮮人の募集が開始され、日本各地で土建・鉱山労働者として雇用された。1941年秋以降の契約更新で増した強制的性格は、1942年3月からの「官斡旋」ではさらに強まった。この結果、大庄村では、朝鮮人は1941年末1万人に近く、村民の2割を占めた。武庫村でも、1940年にすでに3,200人余を数え、1934年4月設立の関西普通学堂が、1939年6月武庫村立尋常高等小学校分教場に移管されて、在留朝鮮人子弟の同化教育に当たった。「官斡旋」による移入は、1942年11月の尼崎製鉄に忠清北道からの150人、1943年6月の日亜製鋼に197人、8月の尼崎製鋼所に65人、11月の久保田鉄工所に100人、同月の神戸製鋼所に全羅北道からの101人などの例が相次ぎ、これらのほか大谷重工業・中山製鋼所・大同製鋼などにもみられて、1943年3月の市在留朝鮮人は臨海工業地帯を中心に3万人を数え、被差別部落における日本人との混住がきわだった。敗戦とともに、朝鮮人従業員は日本人の徴用工・勤労動員学徒・挺身隊員らとともに解放=解雇され、日亜製鋼などでは船を仕立てて尼崎港から帰国した。
参考文献
- 小野寺逸也「1940年前後における在日朝鮮人問題の一斑」『朝鮮研究』 59 1967 日本朝鮮研究所