杭瀬

くいせ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  小田地区の大字。市域南東部、左門殿川の西岸に位置する。辰巳町にかけて鎌倉~江戸時代の辰巳橋遺跡がある。史料上の初見は1099年(承徳3)「治部卿藤原通俊所領処分状案」(壬生家文書/『尼崎市史』第4巻)で杭瀬島とある。神崎川の河口にあった河尻砂州から発達し、戦国時代まで続いた港のひとつで、地名も島であった当時の様子に由来するのであろう。平安末期以降は杭瀬荘として堀河流藤原氏の所領となった。鎌倉時代に入ると入江を隔てて杭瀬と長洲が地つづきとなり、東大寺領長洲荘や浄土寺領橘御園が杭瀬荘の領有権を主張、東大寺との争論は南北朝時代まで続いた。また『摂津志』によれば富島荘の荘域でもあった。

  近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に860石、「元禄郷帳」に861石、「天保郷帳」に875.962石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数72軒、人数435人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には53軒、236人とある。氏神は熊野神社(近世には熊野新宮権現社)。近世にはほかに春日大明神社・八幡宮があった。寺院は浄土真宗本願寺派西光寺

  1889年(明治22)以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1905年(明治38)には阪神電鉄杭瀬駅および大物停車場(大物村との境界上)が開設された。19551958年の土地区画整理と1985年の住居表示により杭瀬北新町・杭瀬本町・杭瀬寺島・杭瀬南新町となったほか、一部が常光寺・梶ヶ島・東大物町・大物町・長洲本通となった。

執筆者: 地域研究史料館

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