東富松
ひがしとまつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
立花地区の大字。市域北部に位置する。富松荘が室町末期から戦国時代初期にかけて東西にわかれ、東側部分は東富松郷または東富松荘と呼ばれるようになった。中世には富松城があった。史料上の初見は「大乗院寺社雑事記」長禄4年(1461)11月25日条(『尼崎市史』第4巻)。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に1,372.442石、「元禄郷帳」に1,475.263石「天保郷帳」に1,475.512石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数145軒、人数801人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には137軒、549人とある。富松井組に属した。氏神は富松神社(近世には牛頭天王社)、寺院は浄土宗大昌寺・同宗西運寺・浄土真宗興正寺派真光寺・浄土真宗大谷派円受寺。富松神社本殿は県指定文化財となっている。
1889年(明治22)以降は立花村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1979年の住居表示により富松町となったほか、一部は塚口町・南塚口町・上ノ島町・南武庫之荘・武庫之荘本町・武庫之荘・武庫之荘東となった。