東武庫
ひがしむこ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生~鎌倉時代の東武庫遺跡がある。近世初頭は武庫と称し、その史料上の初見は1605年「慶長十年摂津国絵図」。正保年間(1644~1648)の「正保郷帳」にも武庫村とあり、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)もしくは1702年(元禄15)「元禄郷帳」のころから西武庫と区別して東武庫と称した。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に185.187石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に278.791石とある。また、前記「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」には家数27軒、人数122人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には25軒、137人とある。武庫井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には春日大明神・牛頭天王の相殿)。
1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1965~1989年(平成元)の住居表示により武庫元町・武庫町の一部となったほか、一部が武庫の里・武庫之荘・武庫之荘西となり、東武庫という地名は消滅した。