東洋紡績神崎工場
1914年(大正3)大阪紡績(株)・三重紡績(株)両社の対等合併によって成立した紡績・織布兼営の株式会社で資本金1,425万円、本社は三重紡所在地の四日市市に置かれた。大阪紡は1883年(明治16)渋沢栄一の発起により日本最初の1万錘規模の工場を大阪市三軒屋に設立し、日本紡績業興隆のさきがけとなった会社。三重紡は1880年伊藤伝七が政府の払下げをうけて四日市近郊に二千錘工場として創業したが、水車動力の不足などにより不振となったのを渋沢栄一の援助によって1886年株式会社として再建したものである。合併時大阪紡は精紡機15万錘、織機4,538台、三重紡は27万錘、5,330台、あわせて42万錘、1万台を備え、42万錘、5,000台の鐘紡、33万錘、2,682台の尼崎紡績を抜いて最大の会社となった。第1次大戦中大きく発展し、1920年5,000万円に増資、本社を大阪市堂島に移した。多くの会社を合併しているが、特筆すべきものは1931年(昭和6)の大阪合同紡績(株)の合併である。大阪合同紡は1889年創立の難波紡績(のち朝日紡績)を基礎として1900年創立され、その後明治紡績などを合併し、東洋紡との合併には43万錘を備え6大紡の1に数えられた。その間1913年に現尼崎市域の小田村常光寺に神崎支店を設置し、翌1914年にかけて4万錘、1,000台の新鋭の神崎工場を建設し、同年6月に操業を開始した。同工場はその後大拡張し、1927年には精紡機15万6,000錘、織機1,490台のわが国最新最大の設備を完成した。東洋紡はこの合同紡を吸収合併して資本金6,500万円、精紡機124万錘、織機1万6,000台をもつ世界最大の綿紡織会社となり、1941年には195万錘、2万5,000台に達した。同年神崎工場はなお精紡機15万錘余、織機1,461台を備える主力工場であった。しかし戦時に入って綿業は不要不急産業とみなされ、設備の供出・軍需工場への転用・戦災によって規模縮小し、世界に偉容をほこった同社の設備は終戦時にはわずか27万錘、5,000台に激減した。神崎工場は1945年6月15日の空襲により焼失、その跡地は1948年売却され、残りの土地建物は同社の厚生施設となった。
工場跡地売却後、兵庫県住宅供給公社が同地に杭瀬団地を建設し、1965年度(昭和40年度)以降数次にわたり分譲した。
参考文献
- 『東洋紡績七十年史』 1953
- 『東洋紡百年史』 1986