東難波
ひがしなにわ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
本庁地区の大字。市域中央部、庄下川沿いに位置する。難波が戦国時代に東と西に分離したと考えられる。史料上の初見は永正年間(1504~1521)と推定される「宇佐永弘氏輔書状」(宇佐永弘文書/大分県史料5)で「ひかしなにハ」とある。仁徳天皇にまつわる難波の梅の伝説が伝えられている。
近世には、1615年(元和元)建部政長の領地となり、1617年の戸田氏鉄入部以降は尼崎藩領であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に1,206.823石、「元禄郷帳」に1,028.323石、「天保郷帳」に1,035.833とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数124軒、人数782人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には121軒、560人とある。大井組に属した。氏神は八幡神社(近世には八幡宮)、寺院は浄土真宗本願寺派浄元寺・同宗同派浄徳寺。
1889年(明治22)以降は立花村、1916年(大正5)立花村から西難波とともに分離して尼崎市と合併し、以降は尼崎市の大字となった。1955年の土地区画整理と1967・1991年(平成3)の住居表示により東難波町・扶桑〔ふそう〕町となったほか、一部は西長洲町・尾浜町・久々知西町となった。1941年北難波に住友金属工業プロペラ製造所(当初は神崎支所)が設置され、市域最大の軍需工場となった。扶桑町の町名は同社が戦後扶桑金属と称したことによる。